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「松平家の血を残す」で揺れた運命

――終戦の翌年、康愛さんの戦死公報が届きます。戦争未亡人は婚家から出て再婚するのが、普通のことだったんですね。

井手 父の次郎が軍医としてサイパンに出征すると決まったとき、康愛さんは母に「あそこは激戦になる。かわいそうだが助からないだろう」と言ったそうです。皮肉なことに、運命が逆転してしまったわけです。

©文藝春秋

 母にとって辛かったのは、康愛さんとの間に3歳の娘がいたことです。松平家の血筋を引くその子は残されて、母一人が離籍することになったんです。断腸の思いだったでしょうが、徳川で育って家の重さを知っている母ですから、嫌とは言えなかったんです。

――次郎さんが医院を開業されたあとは、手伝いをされていたんですか。

井手 高輪警察署の近くだったので、留置場の患者がよく来ました。全身に入れ墨の人が来たら、「ちょっと見せてよ。すごいわね。これ、どのくらい時間かかったの?」とか、平気で話しかけていました。あちらも見せるために彫っているわけですから喜んで、すぐ打ち解けてしまうんです。

 父は外科と皮膚科の専門医だったので、泌尿器科と性病科も兼ねていました。局部の手術などを間近に見て、包茎だの淋病だのという言葉が飛び交う中で、顔色一つ変えずに働いていました。大した度胸です。

官舎に開業した井手医院(『徳川おてんば姫』より)

出る所へ出るとキチっとする「その辺にいるおばさん」

――普段はどんな方でしたか。

井手 肉が好きで、朝はローストビーフを細かく刻んで玉ねぎと和えたのに、フレンチトースト。子供のときから、朝は洋食だったようです。

 負を引きずらない性格で、嫌なこともひと晩寝れば忘れてしまう。まったく飾らないし偉ぶらないし、誰に対してもフレンドリーで、本当にその辺にいるおばさんでした。ただ、出る所へ出るとキチっとするんです。徳川家の姫として育ってきた重みは、身に付いていました。「やりたくない」「嫌い」「美味しくない」といった言葉は周囲を不快にさせるので、決して口にしないように躾けられたとも言っていました。

久美子さん(『徳川おてんば姫』より)

 時間の使い方が上手で、いつも何かをしていましたね。有栖川御流の書か、絵を描くか、テニスかボウリングか、車の運転をするか。はたまた本を読むか。その間にテレビを見たりマージャンをしたり、我々子どもたちの世話をしたり。いま考えても「いつ寝てたのかな」と思うくらいです。