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 三が日が過ぎ5日頃になると、消防士の皆さんが屋敷にやってきます。玄関の式台で新年のご挨拶を受けた後、馬車廻しのところへ梯子を立て、木遣りや梯子乗りを披露してくれました。三河万歳や獅子舞などもやって来て、お座敷で踊ったり、お次たちを追いかけ回したりする様子は、見ていて「何だろう」とわけがわかりませんでした。まだ子供だったのでしょうね。

 母が亡くなってから、12、13歳の頃になると、小事のお客様にも私たちがご挨拶に出なければならず忙しくなったのを覚えています。その頃になると遊びはお預け、カルタ取りなどは夜しかできませんでした。クリスマスからお正月まではずっと賑やかな日が続いていて家の中で遊ぶことがほとんどでしたが、ときには庭に出て、家令たちと雪合戦もしました。

第六天の「特別な日」

 第六天の特別な日、それは御授爵記念日です。慶喜公が公爵を授爵した6月3日に「御授爵の宴」を催していました。この日は、学校から帰るとまずお風呂に入り、赤い縮緬(ちりめん)の着物に着替えます。そして、男の人は羽織袴、女の人は紋付きの正装した大人たちと一緒に御膳を頂き、この日ばかりは大人の仲間入りをしたようで嬉しかったものです。

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始めたばかりのカメラで友人たちを撮影した様子。遠足のお弁当の時間なのか。「当時のセーラー服のスカーフは初等科も中等科も紺色で、胸の刺繍のマークは女子が八重桜、男子部は普通の桜だった」という(『徳川おてんば姫』より)

 少し大きくなってからは、お客様にお酌をして回りました。上野の精養軒からお料理をとり、慶喜公ゆかりの方々をもてなしました。特別に何の儀式があるわけではありません。厳かな日でもあり、無礼講の宴もあり、慶喜家にとっては特別な一日でした。

 私たちにとっては「お写真様」と呼んでいるお部屋に飾られた写真が「おじじ様」であるというだけで、御授爵記念日以外は、日常の会話の中にごく自然に慶喜公の名が出てくる程度でした。ただ、毎朝の食膳に出るおかかは「これはおじじ様のご好物」として出されていました。このおかかは昔からのしきたりのようで、御膳所の一番若い人が毎日鰹節を削っていました。

「身内の者は爵位で呼ぶのが一般的」だった

 第六天では皆、慶喜公のことを「ケイキコウ」か、従一位ということから「一位(いちい)様」と呼んでいました。「よしのぶ」というのは忌み名で、そう呼ぶことができるのは主君か親だけで、祖父自身も普段は「ケイキ」と音読みしていたそうです。

晩年の徳川慶喜 ©文藝春秋

 私たちは「おじじ様」か「一位様」が多かったような気がします。身内の者は爵位で呼ぶのが一般的で、第六天町の松平保男様は「三位様」、私の最初の主人・松平康愛(やすよし)は「五位様」でした。

 大政奉還の後、軍官をしていた慶喜公は、上野の寛永寺で2ヶ月ほど過ごし、その後水戸へ移りました。それから3ヶ月ほどして静岡へ。静岡には30年近くいたのでしょうか。そこで10男11女で21人の子供をもうけました。祖母には子供が1人もいなかったのですが、おふたりの側室がはげんで、従兄弟たちも47人ほどおりました。私が従兄弟たちの中で一番年下でした。従兄弟の中には、長じて勝海舟家、鳥取の池田家などを継いだ方もいらっしゃいます。