晩酌に甘い物…「凝り性」な慶喜公のその後
慶喜公は電車がお好きでなかったのですが、静岡では住まいの近くに電車が開通しまして、その後巣鴨に移ってからもまた電車が近くを通ることになってしまい、騒がしさを避けたくて第六天へ移ったそうです。ですがその第六天の家も今は地下鉄が通っていますから、電車の方に好かれているのでしょうね。
第六天では庭で鶴を飼い、弓と打毬を日課にし、謡曲、囲碁、刺繍などにも堪能だったそうです。また、飼っていたかじか蛙のために御膳所に入り込み餌用のはえを捕っていたという意外な話も聞きました。私が凝り性なのは祖父の血のせいかもしれないと思うこともあります。
酒に強く、保命酒や白葡萄酒などで晩酌していたそうですが、どら焼煎餅や「風月堂」の特製品、ベッタラ漬などの甘い物にも目がなかったようです。私が暮らしていた頃もその名残なのか、第六天ではお菓子がよく作られていました。
投あみ、写真、油絵等、趣味が多かった慶喜公ですが、軽井沢の別荘では慶喜公が描いた油絵がマントルピースの上にかけてありました。投あみの腕は子供たちにも受け継がれ、中には漁師さんから養子に欲しいと言われるほどの技術をもつ身内もいたと聞いています。
ひと言で「徳川」といっても家同士にも複雑な関係が…
後半生は多彩な趣味に時間を割き、政治権力や野心とは距離をおいていた慶喜公らしいエピソードがあります。
旧大名家に招かれた慶喜公が、床の間を背に上座に座り雑談をしていたところ、田安徳川家の家達が「私の席はどこだろう」と言いながら現れたそうです。慶喜公はそっと隣の座布団に移り、家達の席を用意したといいます。
徳川家といっても様々な家がありましたから関係は複雑でした。家達は「慶喜は徳川家を滅ぼした男、俺は徳川家をたてた男」とよく話していたそうです。その伝でいくと、私などは「徳川家を滅ぼした男」の孫になりますから、憎まれていたかもしれませんね。姉たちとそんな話をしたことがあります。
慶喜公は大正2年(1913)11月22日、77歳で亡くなりました。葬儀では集まった人々で沿道が埋まり、江戸名残の火消しが一番から十番まで総出でお供をしたそうです。
谷中にある慶喜公のお墓は、皇族と同じような円墳状で、「公爵」を与えてくださった明治天皇に感謝の意を表すため、自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残したのだそうです。
今でも命日の11月22日にはお参りに行きます。神式のお参りは線香を上げたりせず、神社の参拝のように柏手を打って頭を下げるのです。これは豊島岡墓地(東京都文京区大塚)の高松宮妃喜久子殿下のお墓にお参りするときも同じです。
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