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額の傷と両方の耳孔から、血液混じりのしぶきが

 その直後、バックボードの固定ベルトを外された患者は、スタッフたちの手で、瞬く間にその衣服を切り裂かれて、体表面が露出されていく。

「……ちょ、ちょっと待って」

 処置台の傍らに立ち、初療を仕切っていた当直医が、思わず声を張り上げ、救急隊にかわって人工呼吸と胸骨圧迫を続けていた若い研修医たちを制した。

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「胸骨圧迫をやめて、バッグだけ押してみて」

 人工呼吸だけを続けろ、という当直医の指示で、研修医が人工呼吸用の加圧バッグを、再び何度か揉んでみせた。

 初療室の中の視線が、前をはだけられた患者の上半身に集中する。

 本当なら、加圧によって肺の中に酸素が送り込まれ、胸板が上下しなければならないところであるが、目の前にいる患者の胸郭は、全くと言っていいほどに動かない。それどころか、研修医が加圧バッグを揉みしだく度に、額の傷と、両方の耳孔から、血液混じりのしぶきが激しく飛び散っている。

 患者の気道が閉塞し、そのために加圧された酸素が肺に向かわず、あらぬ所から抜け出てしまっているのだ。

 気道確保と人工呼吸が、有効なものになっていないことは誰の目にも明らかである。それに加えて、このあらぬ所から送気が漏れ出るというのは、頭蓋骨、特に頭蓋底と呼ばれる頭部の最も深い部分が、激しく損傷してしまっているであろうことを強く疑わせる所見でもある。相当な衝撃が顔面や頭部に加わったことは間違いない。

胸骨圧迫にも手応えなく

「じゃ、今度は、胸骨圧迫だ」

 別の研修医が、当直医の指示に従って、二度三度、胸骨圧迫をしてみせた。

 研修医の腕の動きに応じて、処置台がわずかながら軋んでいるようには見える。本来ならリズミカルに上下しなければならないはずの患者の胸壁に、しかし、動きはない。というよりは、胸郭そのものが大きくひしゃげてしまっており、とてもその内部に心臓や肺の納まる空間があるとは思えないほどである。

 高所墜落という最初の甚大な外力を受けても、かろうじて残存していたかもしれないであろう胸郭の構造が、心肺停止状態を確認された後に行われた救急隊による最初の胸骨圧迫で、おそらくは破壊されてしまったものと思われる。

 それを見届けた当直医は、研修医を手で制しながら、「わかった、もういい」と声をかけた。