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指先の感覚が戻らずに

 傍から見れば、いつ引退を口にしてもおかしくない状態だった。事実、「もういいだろう」という言葉を耳にしたこともあったという。引退を進言した人たちは、「栄光のまま終わらせたい」という親心だったに違いない。だが、松坂は諦めようとしなかった。いい医者がいると聞けば東へ、腕のいい治療者がいると知れば西に飛んだ。諦めの悪さを、松坂が苦笑いしながら語ったことがある。

「夏の甲子園のPL戦で、延長に突入したころから体がきつくなったけど、先にマウンドを降りることだけはしたくなかった。心が折れなければ、必ず目標は達成できると知った」

 松坂はこの時に培った折れない精神で、厳しい試合、負けられない試合で力を発揮し、勝ち星を重ねただけでなく「勝負強い」と称されるようになった。ケガで苦しんでいる時も一縷の望みにかけ、「給料泥棒」とバッシングされようと萎縮することはなかった。

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 だが、20年に首の手術をしたものの、1年経っても右手が痺れ、指先の感覚が戻らなかった。投手にすれば致命傷と言えた。

©️松本輝一/文藝春秋

 遂にその時が来たーー。

自分をマウンドでさらけ出す勇気

 引退試合となったメットライフドームは異様な雰囲気に包まれていた。松坂がマウンドに上がるとスタジアムから音が消えた。観客は総立ちになり、松坂の球音を逃すまいと耳を澄ませ、一挙手一投足に視線を走らせる。松坂の最速は118㎞。しかもたった5球しか投げられなかった。

撮影:杉山秀樹

 WBCやレッドソックス時代に強打者をバッタバッタと三振に打ち取った姿は見る影もなかったが、それでも懸命に腕を振ろうとする姿に野球人としての矜持、不甲斐ない自分をマウンドでさらけ出した勇気、そしてボロボロになるまで諦めず戦い続けてきた過程を想像し、多くの人が感嘆した。「どうしようもない姿」が、「カッコいい姿」に変った瞬間だった。

©️松本輝一