成功は一夜にしてならず。積み上げることの大切さ。才能に恵まれていないと自負していた菊地は、長い下積みを経ることで望んでいた状況を手に入れた。
暗転した野球人生…「まだ野球がしたい」
しかしながら菊地の野球人生は再び流転する。翌年、春季キャンプで右手薬指を骨折してしまい出場機会が激減。以降、2年間出番らしい出番はなく戦力外通告を受けるも、2012年に創設されたばかりの横浜DeNAベイスターズに移籍。
当時のDeNAは脆弱なチームであったが、菊地は新天地で気を吐き63試合に登板し防御率2.37とキャリアハイの活躍を見せた。5月末からの約3ヵ月では30試合連続無失点という、当時のセリーグ単独4位、いまなお球団2位の記録を達成。シーズン終盤には勝ちパターンも任された。積み重ねた努力が花開いた瞬間だった。気がつけば、地元高崎が生んだスターBOOWYの『Marionette』に乗ってライトブルペンから猛ダッシュでマウンドに向かう姿はお馴染みの光景になっていた。
しかしDeNAでも投手としての輝きを放ったのはこの1年のみ。2014年シーズンをもって2度目の戦力外を宣告された。
2回のリリースであれば諦めもつくところだが、菊地は「まだ野球がしたい」と燻りつづけた。その後、DeNAのはからいで日本ハム時代から長年コンディショニングの妨げになっていた右肩の手術を受けることができ、菊地は1年後の合同トライアウトをタイムリミットとして、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスに兼任コーチとして入団した。
しかし、できるかぎりの準備をしたものの、かつての球威を取り戻すことができず、トライアウトに挑戦後の2015年末に引退を表明した。
「プロでやれる能力があったかといえば…」
「トライアウトに向けて仕上げていく中でうすうす、『これ、厳しいな……』と気づいている自分がいて、それも辛かったですね。
実際、プロ野球人生を振り返ってみても、プロでやれる能力があったかといえば正直なかったと思います。ただNPBで10年間、あきらめず自分と向き合うことで、ファイターズとベイスターズで1年間だけでも活躍できたのは自分の誇りです。
多くの選手が活躍もできないまま去る世界。もちろん、悔しさもあるし、もっと頑張りたかったけど、うん、満足しかありませんね」
菊地の野球人生は、現実を知りながらも抗いつづけ、わずかばかりの果実をようやく手にするような日々だったのかもしれない。だが、このコツコツと自分に向き合う経験がのちの生活に大きく影響するようになる。