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持病の腰痛が悪化し、戦線を離脱

 圧倒的な勝利を飾ったホーガンは、たちまち新日本のリングにおけるトップ外国人選手となり、1982年には映画『ロッキー3』にも出演。アメリカンドリームを体現した。考えようによっては、ホーガンを格上げするには相手にも相応の「格」が必要であり、当時の新日本が小林さんを低く評価していたとは必ずしも言い切れないが、3分で試合終了となったことは「国際の元エース」の尊厳を深く傷つける格好となった。

 小林さんは1981年10月16日、大分県立総合体育館での試合を最後に、持病の腰痛が悪化し、戦線を離脱。その後セミリタイヤ状態となり、1984年に地元の福生大会で引退セレモニーが開かれ、マットに別れを告げた。

横浜アリーナで開催された新日本プロレスの20周年記念大会

 最後の試合から約10年後の1992年、小林さんは横浜アリーナで開催された新日本プロレスの20周年記念大会に呼ばれ、一夜限りのリング復帰を果たしている。坂口とタッグを組んで、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助組と戦ったが、往年の見せ場は作れなかった。

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「あの当時、芸能活動で忙しくしていたなか、恥ずかしくないように自分なりに体をつくっていたんですけどね。最初から場外乱闘でお茶を濁すような展開(6分58秒坂口組の反則勝ち)で、『これはないよなあ』と。あれは残念でした」

芸能界で15年も仕事ができたのは、あの猪木戦があったから

 たとえ引退していても、リングに上がる以上はお客さんに満足してもらいたいというプロレスラーとしてのプライドと、それが実行できなかったふがいなさが交錯し、小林さんは寂しそうに宙を見つめた。

「あの日、猪木さんとは話をしなかったです。普通であれば控室に行って、挨拶をするところですが、当時の猪木さんは国会議員でね。社長じゃなく会長って呼ばれて、我々とは違う特別室にいるんです。僕は、特別室まで訪ねて挨拶に行く気にはなれなかったわね、ハハハ…」

愛猫と写真に納まる小林さん

 かつて、プロレス史に特筆される名勝負を繰り広げた2人の「再会」は実現しないままに終わった。だが、小林さんは飼い猫の背中に大きな手を乗せ、しみじみとこう語った。

「確かに、新日本ではいろいろありました。使い捨てにされたなと思ったこともある。でも、猪木さんと僕を新日本にスカウトしてくれた新間寿(元新日本プロレス営業本部長)さんにはいまでも感謝しているんですわ。プロレスのあと、芸能界で15年も仕事ができたのは、やっぱりあの猪木戦があったからですよ。プロレスラーのストロング小林を知っていた人がたくさんいたからこそ、僕はこうして生きることができた。その恩は忘れることはないですよ」

 背反する2つの思いを同時に抱きながら、最後はプロレスと猪木に対する感謝を語った小林さん。また1つ、昭和プロレスを彩った大きな灯が消えた。