昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2022/01/07

新日の経営改善のきっかけとなった「昭和の巌流島」

 国際プロレスを退団した小林さんが、新日本プロレスのエース・アントニオ猪木とシングルで戦う「日本人トップ対決」が発表されると、業界は騒然となった。

 新日本プロレスで営業部長をつとめた大塚直樹氏が語る。

「新日本プロレスの旗揚げは1972年ですが、当初はあまりチケットが売れず、試合会場近くで猪木さんの写真が入ったポスターを貼ると、どこに行っても『ストロング小林が来る!』と言われました。若き日の猪木さんが小林さんと顔が似ていたこともありますが、当時の国際プロレスは放送網の多いTBS系列で中継されていたため、プロレスラーとしての知名度は猪木さんより小林さんの方が圧倒的に高かった。ですから、あの日本人対決は本当に反響がありましたし、その後新日本プロレスの経営が上向きになる大きなきっかけになったと思いますね」

猪木vs小林のNWF世界ヘビー級戦は「昭和の巌流島」と呼ばれた

 小林さんは蔵前国技館で行われた(1974年3月19日)猪木戦で敗退(29分30秒原爆固め)。雪辱戦となった12月12日の試合は、猪木の卍固めに小林さんがギブアップしなかったため、レフェリーストップによる猪木の勝利となった。

 この2戦目について、小林さんはミスター高橋氏に感謝していた。1戦目に続き、2戦目も猪木の完全な勝ち(ピンフォールかギブアップ)で決着をつけようとした新日本サイドに対し、この試合ではサブレフェリー(メインレフェリーはコシキ・ジン)をつとめていた高橋氏が、小林さんのプライドに配慮し「レフェリーストップ負け」を猪木に強く主張。それが通った形になったからである。

新日での「飼い殺し」のような状況への苦悩

「そんなこともありましたよね」と笑ったミスター高橋氏に、小林さんはこう語った。

「僕はギャラの面でも何も言わなかったから。あのとき、僕に悪徳マネージャーでもついていたら、新日本はもっと大変なことになっていたかもしれないね、ハハハ…」

 猪木との2連戦で大きな話題を提供した小林さんは、その後正式に新日本プロレスに入団。坂口征二とのタッグで活躍したが、藤波辰巳(現・辰爾)の台頭や、猪木の異種格闘技路線が本格化するにつれ、新日本プロレスの役員でありながら、リング上では本流から外される形となってしまう。

坂口征二とのタッグでも活躍した小林さん

 小林さんは当時、自身の扱いについて不満を訴えたりすることはなかったものの、選手として好敵手に恵まれず、いわば飼い殺しのような状態に置かれていた状況には苦悩していた。

 小林さんの気持ちが切れたのは1980年、「超人」ハルク・ホーガンのテレビマッチの日本デビュー戦の相手をつとめたときのことである。小林さんはまったく自分の技を出せず一方的に攻められ、わずか4分足らずで3カウントを聞くことになった。

「確かに彼はアメリカで売り出し中の選手であったけれど、当時はまだプロレスを知らないグリーンボーイですよ。新日本からも何の説明もなくて、ああ、これがいまの自分の置かれた現実なんだなと思いました。もちろん、腰を痛めていたこともあって精彩を欠いていたのは自分でも分かっていました。でも、どうしても割り切れないところがあったんですね」