昭和のプロレス界で活躍したストロング小林さん(本名・小林省三)さんが2021年12月31日、東京都内の病院で死去した。81歳だった。
東京・青梅市出身の小林さんは東京都立農林高校(現・青梅総合高校)卒業後、国鉄勤務を経て旗揚げ前の国際プロレスに入団。同団体のエースとして活躍した後、1974年にフリー宣言し、アントニオ猪木率いる新日本プロレスのリングに登場。同年に実現した猪木とのシングル2連戦は、「禁断の日本人対決」として、いまなお語り継がれる昭和の名勝負である。
いつも物静かで、言葉遣いも丁寧な人だった
小林さんは1981年を最後に試合から遠ざかり(正式な選手引退は1984年)、同時期に芸能活動を開始。『風雲!たけし城』(TBS系)に「ストロング金剛」の芸名で出演し、スキンヘッドの怪人役としてお茶の間の人気者となった。
ここ10年ほどはかつて身を置いたプロレス界、芸能界と距離を置き、青梅市内の自宅で療養していた小林さん。専門メディアや限られた関係者の取材はしばしば受けており、近年まで健在ぶりが伝えられていた。
「同世代の仲間がまた1人亡くなってしまい、言いようのない寂しさを感じています」
そう語るのは、小林さんと同学年で、晩年まで親交のあったミスター高橋氏(元新日本プロレスレフェリー)だ。高橋氏は、ストロング小林さんの評伝『「怒涛の怪力」伝説』(フルスイングマガジン)も上梓している。
「気性の激しい男たちが集まるプロレス界において、小林さんはいつも物静かで、言葉遣いも丁寧な人でした。小林さんは1966年11月26日、日比谷公会堂で開催されたボディビル大会(「ミスター日本コンテスト」)に出場し、そこで国際プロレスの吉原功社長にスカウトされるわけですが、実は私もその大会に出場しており(成績は9位)、小林さんと会っているんです。
その後、新日本プロレスで選手、レフェリーとして同じリングに上がることになるとは夢にも思いませんでしたが、人の縁とは不思議なものだと思いますね」
なぜ新日本プロレスに移籍することになったのか?
プロレスラーとしてのストロング小林には、光と影がある。
選手としてのハイライトシーンを挙げるなら、日本中の注目を集めた前述のアントニオ猪木戦(1974年3月、12月)。一方、実質14年間でプロレスラー引退を余儀なくされた経緯については、本人も「不完全燃焼」を認めている。
2017年、ミスター高橋氏とともに小林さんの自宅を訪ね、長時間にわたり話を聞く機会があった。ファンを熱狂させた猪木戦よりも、どちらかと言えば苦難や痛恨を包み隠さず淡々と語る小林さんの口調からは、自分で自分の栄光を語るまいとする昭和のプロレスラーの矜持のようなものが感じられた。
国際プロレス時代、全盛期で187センチ、125キロという恵まれた体格を買われ、団体の若きエースとなった小林さんだが、なぜ新日本プロレスに移籍することになったのか。