『失われた岬』(篠田節子 著)KADOKAWA

 様子のおかしくなった人が失踪する。『失われた岬』の各章で描かれる謎は、単純に書くとこれだけであり、サスペンス小説の起点としては何の変哲もない。しかし最初から何とも言えない不気味な雰囲気が付きまとう。しかも物語の果てには、黙示録的とすら言える世界が広がる。篠田節子氏は突拍子もない展開をよく挟む作家ではあるが、よもやこれほど……。

 いや先走り過ぎた。まずは粗筋紹介だった。美都子の友人、清花(さやか)は断捨離を突き詰め、ミニマリストも極まった何も持たない生活を送り始める。やがて清花夫婦は北海道に転居し、美都子はおろか娘の愛子にすら連絡を入れずに失踪する。清花の夫は、現地の知人に、岬に行くと言い残していた。旧陸軍の毒ガス工場があったと噂されるその岬カムイヌフは、今は道なき原生林に深く抱かれている。

 以上が2007年を舞台にした第1章の概要である。続く第2章は全く違う話となる。なにせ語り手が人工知能なのだ。AI心理療法士として、音楽プロデューサーだった男の話を聞くのだ。男が2006年に出会った女・肇子(はつこ)は、豪奢な生活を捨て、大麻栽培疑惑を受けながら、「静穏な生活」を望み、カムイヌフ岬に消える。またこの岬である。

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 続く第3章は、美都子を再び主役に据え、岬と清花にまつわる別の展開を見せる。第4章では、日本人作家がノーベル文学賞を授賞式直前に辞退して失踪し、これまたカムイヌフ岬に消える。

 このように、本書では岬が何度も登場し、同地に何かがあることが示唆される。全9章はそれぞれ独立しつつも相互に強く関連しており、静かにじわじわと核心に向かっていく。

 岬に消えた人々は、何を求めていたのか。岬には何があり、何が起きるのか。作中時間で実に20年超をかけて、この謎は全て解かれる。現実的な真相が提示され、作中の社会もその真相に沿って事件に対応し、物語はその意味では綺麗に閉じられる。しかしながら、本書は更にその先へ進む。第2章の語り手がAIであった時点でうっすら見えていたのだが、2020年代後半という近未来の様相が非常にダークに、曇天のように描出されるのである。テクノロジーの進歩は市民生活の閉塞として結実し、国際関係は緊迫緊張の度を増し、太平洋戦争以前から変わらない日本社会の闇は変わらず持ち越され、おまけに異常気象が追い打ちをかける。2022年の現代社会に生きる我々がぼんやり不安に思っていることを、篠田節子は物語の背景に、一つ一つ、静かに、丁寧に配置していく。それが、「静穏な生活」を求めた人々による岬の事件と結びつくとき、小説は冷え冷えとした深淵を得るのだ。読んでいたサスペンス小説が、いつの間にか静かに、恐ろしい近未来小説に変容していく。この惑乱にこそ、本書の神髄がある。

しのだせつこ/1955年、東京都生まれ。97年『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞、19年『鏡の背面』で吉川英治文学賞を受賞。ほかの著書に『田舎のポルシェ』など。
 

さかいさだみち/1979年生まれ。書評家。「リアルサウンド ブック」にて連載「道玄坂上ミステリ監視塔」に参加中。

失われた岬

篠田 節子

KADOKAWA

2021年10月29日 発売