『鴨川ランナー』(グレゴリー・ケズナジャット 著)講談社

 第2回京都文学賞を受賞したこの作品は、アメリカ人である著者が日本語で書いた小説だ。主人公はアメリカの高校で日本語と出会い、研修旅行で2週間だけ京都を訪れる。地元の大学を出た後、あらためて日本へALTの教師としてやってくる。やがて日本文学に傾倒し、京都の大学で谷崎潤一郎を学ぶ。ストーリーは著者の実人生をなぞっているらしい。

 たいそう面白く読んだが、小説の面白さがどこにあると感じるかは、きっと人それぞれだろう。異言語、異文化、という興味深い素材を扱いながら、その邂逅によるわかりやすい面白さはない。やがて「自分のいない日本語のほうが美しい」と吐露するようになる主人公のゆるやかな絶望が痛みを伴って伝わってくる。

 二人称で書かれた文章は清潔で美しい。流れるように連なって、すらすらと進んでいく。ただし、小説としては、すらすらとは読めない。喚起させるものがあまりにも多い。たくさんの驚きや、発見、感情の揺れ、興奮とともに一文ずつ味わいながら読み進めることになる。一つの単語にはっとさせられて、立ち止まる。たとえば、「通路」。たとえば、「打診」「手紙」「権力」。戻って、もう一度読む。同じ単語が、今度は少し見慣れた表情で別の感慨に誘う。日本語について書かれている、その日本語自体が非常に魅力的に組み合わされ、駆使されている。

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 主人公が16歳のときに初めて京都を訪れた際の、印象的な場面がある。祇園祭の夜、鴨川にかかる大きな橋の中ほどに立って川を眺める場面だ。

〈まるで御伽噺の光景だ、ときみは思う。(中略)
 きみはまだ橋の真ん中辺りで、両岸の間で浮きながら川を眺めている。〉

 この場面が主人公の心に強く焼き付けられ、そのイメージが繰り返し現れることによって、その後の人生の進路が変わってゆく。

 そういったことは、誰の人生にも起こりえる。これほど鮮やかな場面ではなくとも、ある出来事やイメージが自分を導いてくれるようなこと。つまり、「通路」になるものとの出会いだ。かつて私にも、「通路」が開かれた瞬間があった。ふいに世界に通ずるようなひらめきを、たしかに感じたことがあった。うまくはいえない。ただ、そのイメージを今も思い出す。主人公にとって、「通路」は日本語であり、四条大橋の真ん中で体感した景色だった。「通路」はいつ、どのようなかたちで開かれるのか。そこからどこへ行けるのか。あるいは行けないのか。鴨川の川縁を走りながら、主人公は考える。立ち止まらない。

 併録の「異言(タングズ)」は、英会話学校の教師として来日したアメリカ人男性の一人称で語られる。やはり言葉を素材として書かれた中編だが、趣はだいぶ異なる。異言ははたして彼の前に何度表出するのだろう。

Gregory Khezrnejat/1984年、アメリカ合衆国生まれ。2007年、クレムソン大学を卒業ののち、同志社大学に留学。現在は法政大学のグローバル教養学部にて准教授。21年、表題作「鴨川ランナー」にて第2回京都文学賞を満場一致で受賞した。
 

みやしたなつ/1967年、福井県生まれ。2015年刊行の『羊と鋼の森』で本屋大賞を受賞。近著に『ワンさぶ子の怠惰な冒険』。

鴨川ランナー

グレゴリー・ケズナジャット

講談社

2021年10月27日 発売