今やスキーと並ぶ冬のスポーツの代表で、新しい文化を生み出したスノーボード。その歴史が始まったのは、1977年だった。
「スナーファー(小型のソリのような1枚の板)を改良して新しいスポーツを生み出したい」。そんな夢を持つ23歳の若者が、マンハッタンの投資銀行を半年で退職して、ボードの試作品をつくり始めた――。
本書はスノーボードブランド「BURTON(バートン)」を創業したジェイク・バートンの生涯を、生前の密着取材と関係者の証言で綴ったノンフィクションである。私は読みながらバートン氏と過ごした日々を思い出していた。
彼と親交を深めるきっかけは2003年、星野リゾートが福島県のスキー場「アルツ磐梯」の事業再生に携わることになったこと。当時、日本の伝統的なスキー場ではスノボが禁止されているなど、スノーボーダーが歓迎されていなかった。そこで「スノーボーダーの聖地」というコンセプトを掲げ、アルツ磐梯のマーケティングを始めたのだ。
私は彼の米バーモント州にある自宅を訪れて、時にはバーベキューをしながら何度も相談した。彼は私の提案に賛成してくれ、スノボの世界大会「ニッポンオープン」を05年からアルツ磐梯で開催。中国や韓国でも人気が出てきたので、09年に「アジアオープン」へと規模を拡大した。
私もそうだが、バートン氏は、世の主流とは少し違った方向へ行きたいという反骨精神を持っていたように感じている。
だからこそ、彼は当初ボードが売れなくても諦めず、スキー場をまわってスノボができるように粘り強く交渉した。さらに、ダボダボのパンツを腰ではき、ウェアをラフに着崩すというスキーとは対照的なファッションも含めた文化をつくりあげることができたのだ。
私はバートン社の本社にしばらく滞在したが、経理や財務、人事でもスノボをしない社員はいなかった。バートン氏自身も年間100日ライドを欠かさず、本社の玄関のドアには「雪が降り出したら、オフィスはクローズします」と書かれていた。つまり、フレッシュないいパウダーの雪が降ったら滑りに行こうぜというノリを楽しめる人が集まっていて、それでいいというカルチャーだった。
そのアウトローな文化に、若者たちはかつてのビートルズのように惹かれたのだろう。それは10年代以降、スキー界にも入っていき、新たな若者のライフスタイルとなったのだ。
バートン氏と最後に会ったのは、11年に東日本大震災が起こる少し前。彼はアジアオープンを見るために来日すると約束した。だが、原発事故の影響で大会を開けず、心臓病やがんと闘っていた彼は19年に65歳で亡くなった。
本書を通じて、彼の情熱と偉大な功績を、より多くの人に知ってもらいたい。
ふくはらけんし/1967年、広島県生まれ。神戸大学卒業後の92年、NHK入局。報道番組部ディレクターを経て、96年に渡米。著書に『超一流のメンタル マイケル・チャンのテニス塾』がある。
ほしのよしはる/1960年、長野県軽井沢町生まれ。慶応大学経済学部卒。星野リゾート代表。現在運営拠点は国内外53カ所に及ぶ。