フィクションに勝てるエピソードがなければ…
おそらく彼ら彼女らがイメージする「虐待」や「貧困」は、ごくごく限られた形をしていて、自分の思う「かわいそうな人像」に当てはまらない人(例:子供の頃に虐待されていたけれど、幸い壮絶な死を迎えるわけでもなく、今は“普通”に生活している人、貧困家庭に生まれたがボロボロの衣服を着ていたり飢餓状態にあるわけではない人)たちのことは、そもそも知らないというか知ろうともしていないし、共感もできないし、「なんか認めたくない」という気持ちがあるのかもしれない。
以前、自分の体験を綴ったエッセイに寄せられたコメントに、思わず笑ってしまったことがある。
「この人とおしん(※)、どっちがかわいそうなの? おしんよりかわいそうじゃなければ、まだいいじゃん」
※『おしん』は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放送されていたNHK連続テレビ小説第31作。8月15日から8月20日までの6日間は『もうひとりのおしん』放送、ならびに12月29日から翌年1月7日までは年末年始特別編成につき中断、NHKの連続テレビ小説では『鳩子の海』以来の1年間放送となった。全297話。NHKテレビ放送開始30周年記念作品(『Wikipedia』より)。
どうやら『おしん』(フィクション)に勝てるエピソードがなければ、まあまあひどい虐待や貧困も「まだマシじゃん」で済まされる可能性があるらしいということを、このとき初めて知った。
多分こういう人たちの頭の中には「理想的な弱者像」みたいなものがあって、それはおそらく、どんなにつらくても声を上げず、健気に耐え忍ぶように「本当につらくて困っている人は声を上げない」みたいな美談的解釈なのだろうし、実際「自分がイメージする弱者」の理想像から離れている人間が声を上げていることを「なんか気に入らない」と思う人たちは決して少なくない。だからこそ、気に入らない存在が目に入った途端に「嘘だ」「作り話ならもっと現実味のあるものにしろ」というような言葉が真っ先に出てくるのだ。美談としてエンタメ的に消費できないものは、事実だと認めない。なんてさもしいのだろう。
「ホームレスに配られる弁当が豪華すぎる」という非難
以前、インタビューか何かで「食糧支援としてホームレスの人たちに配られているお弁当の内容が豪華すぎる、という批判が相次いでいる件について、どうお考えですか」と聞かれたことがある。一瞬意味がわからず、「ホームレスの人が豪華な食事を摂ることの何が悪いんですか?」と答えたのだけれど、記者の人によれば、どうやら「働かずに食糧支援に並んで飯を食っているような連中に無駄な金を遣い、甘やかすのはいかがなものか」といった批判が一部で過熱していたらしい。