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 家にたどり着くと、親戚たちが集っていた。今宵は私の合格を祝う会のはずだった。なにせ漁業が出たのだから。だけど当然、お通夜のような空気。「食べる?」母が机の上のローストビーフをとりわける。一口食べる。冷え切った、みじめなローストビーフだった。私は再び泣いてしまう。ふと見ると、妹がこんな愉快なことはないとばかりに、ムシャムシャとローストビーフを食らい、ガブガブとジュースを飲んでいた。

内戦と独立

「ローストビーフは元から冷たい食べ物やった気がするな」大学院での飲み会の席、私が話し終えると教授はそう言った。確かにそうだ。ローストビーフは本質的に冷たい。教授は続けた。「漁業をやらなかったのが素晴らしい、と僕は思うな。そこで勉強してたら、お前の人生は母ちゃんのものになってたんと違うかな」

 本当にそうなのだ。中学受験は確かに親子の総力戦だ。だけど、それは子がまさに思春期に入らんとする時期になされる。親と子の心が別々になって、血まみれの塹壕戦になり、植民地は独立してゆく。総力戦と並行してそんな内戦が始まっているのが中学受験なのだ。

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©️文藝春秋

 だから、母親に降臨した中学受験の神様は拒絶されねばならない。いや、受験に限らない。大人になるとはそういうことなのだ。誰かが「出るぞ出るぞ」と親切に言ってくれる。言われた通りにやれば、目の前のことはうまくいくのかもしれない。それでも「そんなもの出るはずがない」と思ったら、やらない。その結果、勝つこともあれば、負けることもあるだろう。いずれにせよ、その結果を自分の歴史として引き受けることができたとき、心は少し大人になる。自分だけの心が生まれる。

中学受験の神様のご加護あれ

 教授が言っていたのはそういうことで、私は大学院でそういう学問を学んでいた。だからなのか、私の業なのかわからないのだが、その後私は、教授の「漁業が出るぞ出るぞ」にも応えなかった。尊敬していたし、面倒を見てもらい、期待もかけてもらったけど、最終的には「漁業は出るはずがない」と思ったから、やらなかった。結局、漁業は再び出題された気もするから、人生は反復だ。

 それでも思うのだ。「漁業をやらなかったのが素晴らしい」あれは金言だったし、あれこそ心理学の本質だった。心には心のロジックがある。今もそう思って、心の仕事をしている。

 ということで、季節は中学受験本番。年頃のお子さんがおられる皆様、体調管理にお気を付けください。あ、ちなみに、お子さんの志望校、今年は漁業が出ますからね、復習しといた方がいいですよ。中学受験の神様のご加護あれ。

(撮影:今井知佑/文藝春秋)

心はどこへ消えた?

東畑 開人

文藝春秋

2021年9月3日 発売