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「三国人発言」は、他者に憎悪を公然と投げつける姿を確信的に見せた。いまの社会の風潮にも影響を与えていないか? たとえば現在、小池都知事は関東大震災の朝鮮人犠牲者らへの追悼式にメッセージを送るのをやめ、歴史に向き合おうとしない。「三国人発言」から20年の間に起きた動きの一つである。のんきに「石原節」と報道していてよいのだろうか。
雑にまとめる新聞に感じた“危うさ”
「石原節」と呼ばれるものがあるのは別によい。たとえば読売新聞の文化面(2月2日)では作家の西村賢太氏が追悼文を書いている。石原氏の政治家としての面には毫も興味を持ってなかったが、
《しかし六十を過ぎても七十を過ぎても、氏の作や政治発言に、かの『価値紊乱者の光栄』中の主張が一貫している点に、私としては小説家としての氏への敬意も変ずることはなかった。》
と記している。そして同日の読売社会面の「評伝」は、
《若き日のエッセーに「価値紊乱(びんらん)者の光栄」がある。タイトルのままの人生を生き切った。》
と同じ点に注目している。
石原氏の言動や政策の源を著作から見いだし、政治家の特徴として見立ててみせるのは「論評」である。こういうのは読みごたえがある。
故人をしのび、その功績をたたえるのは自然なことだが、石原氏の発言をなんでもかんでも「石原節」と雑にまとめてしまう新聞の手つきには危うさしか感じなかった。最後まで「言いっ放し」をさせてよいのだろうか。