たとえば、何かいい報せがあったとき。一気に視界が明るくなって、窓外を眺めれば見慣れた風景がいつもよりぐっと輝きを増す。逆にショックを受けたあとは、眼に映るすべてが彩度を失い、まるでモノクロの世界に迷い込んだかのようにも……。そんな経験、誰しもあるのでは。同じものを見ても、気分によって受け止め方はガラリと変わる。ましてや他人の眼には、同じものがどう映っているかなんて想像も及ばない。

「百聞は一見に如かず」なんてことわざもあって、実見することには大きな信頼が置かれているけれど、ちょっと立ち止まってみれば「見るってどういうことか。ずいぶん頼りなかったりするのでは?」と揺らいでしまう。

 そんなことを強く考えさせる展示が東京六本木、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで開催中。今井智己「Remains to be seen」展。

ADVERTISEMENT

「Remains to be seen」展示風景

平凡なビルのエントランスが神々しく見える

Tomoki Imai, “Untitled”, 2016, C-print, 70.4 x 51 cm © Tomoki Imai / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film

 展示のタイトルは「見たままおいてある」といったところ。慣用的に「まだわからない」という意味になるのだとか。

 今井智己は2000年前後から着実に作品を発表し続けてきた写真家で、展示してあるのはもちろん写真作品ばかり。会場に入って見渡せば、壁面に整然と大小の写真が並んでいる。これがとても、とても静かな印象を受ける。ちょうどいまごろの冷気漂う季節、深い林の中にぽつり身を置いたような冴えた空気に包まれる。

 画面に写っているのは実際のところ樹々が多いから、しんとした林の中を連想するのかもしれない。ただし撮影地は自然の中だけに限らない。街角の植栽や住宅街のブロック塀、ときには公園のゴミ箱や一個のグラスだったりもする。脈絡がないし、いったいなぜこれを被写体に選んだのかはどうにもよくわからない。

Tomoki Imai, “Untitled”, 2017, C-print, 50 x 36.2 cm © Tomoki Imai / Courtesy of
Taka Ishii Gallery Photography / Film

 単にわけがわからないのならそれまでだけど、何を撮ったか判然としないそれらの写真が集まってこんな清澄な空気を生み出すとなると、どうしてそうなるのか俄然興味が湧く。一枚ずつの前に立って観ていく。と、まったく取るに足らない光景だと思える写真ほど、なぜだか見入ってしまうから不思議になる。

 たとえばちょっと古びたビルのエントランスだろうか、石の床の上にガラス造りの扉が閉められている写真。ビルの名前も入居している会社名も不明。どこにある建物か知る手立てはまったくなく、異様に匿名性が高い一枚だと気づく。光景としては平凡の極み。けれど、そこに射し込む陽光が優しく清らかそうだからか、石やガラスや扉枠の金属がどこか神々しさすら帯びている。

 とりわけ、扉の隙間にできた細長いスリット状の部分。そこだけガラスを通さないので、周りより一段濃い光の色が目に眩しい。光が自分のもとに届く、それだけのことがすでに喜びだったと改めて知る思いだ。

「見るってどういうことだろう」とシャッターを押す

 おそらく撮影者たる今井智己は、

「このグラスはバカラで、そこに牛乳を注いで飲むとおいしいのです」

 とか、

「これは都内の公園で最も古い樹木のひとつ。樹齢は数百年と言われており……」

 などと、写真で情報の伝達をしたいわけじゃない。それよりも、

「見るってどういうことだろう」

 それだけを思い対象をしげしげと見つめ、あとは大切そうにその形態と色をカメラで掬い取ろうとしているだけ。

Tomoki Imai, “Untitled”, 2016, C-print, 55 x 70.4 cm © Tomoki Imai / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film

 すると、頭の中で意味づけや名づけをしてしまう前のモノや光景が、くっきり新鮮なかたちで画面に浮かび上がる。よく見知っているはずのものだって、視線の注ぎ方ひとつでかくも姿を変えるものなのか。静謐な空間に、じつは驚嘆がたっぷり詰まった展示だった。