政治家に求められる「想像力」とは
ここを読んで思い当たる節があった。最近、「利他」というキーワードをよく見かける。『思いがけず利他』(中島岳志 著、ミシマ社)という本では、利他の本質に「思いがけなさ」があるのではと書かれている。自己と他者は「置き換え可能な存在」という想像力が必要だと。
『くじ引き民主主義 政治にイノヴェーションを起こす』 (吉田徹 著、光文社新書)という本でも、公共性とは「立場互換性」がなければ存在し得ないとあった。
ここで先ほどの石原慎太郎氏への指摘を思い出そう。《誰しもある日突然、マイノリティーになる可能性があり、自分が排除される立場になるかもしれないという想像力が欠けている》という部分である。
石原氏には都庁職員や番記者など内輪ではいい人エピソードが多いが、それは我々一般有権者には関係ないことだ。そんなことよりも政治家に求められるのは社会的弱者もちゃんと見つめてくれる目だろう。
ところが、誰しも突然マイノリティーになる可能性という「立場互換性」への想像力が石原氏には欠けていたように思える。利益を共にする身内には優しいが、他者にはひどい言葉を平気で投げかける。究極の内輪ウケと言えないか。この人が築いてしまったスタンスは今の社会にも影響を与えている。
メディアが夢中になった「力強さ」
その一方、石原氏は本当に「力強い人」だったのかという検証も必要だ。
人気はあったが自民党の総裁にはなれなかった石原氏は、東京都知事という座を選んだ。石原都知事が何か政策を出せば出すほど、その視線は東京都民ではなく自民党や永田町に向けて「見て、見て、俺を見てー」と言っているように、私の目には映った。その自称・力強さにメディアはまんまと夢中になっていた。
石原慎太郎氏を考えることは今を考えること。故人をしのびつつ、その「業績」をあらためて検証することが必要だと思います。