死がとても近く、愛がとても深い。そういう物語が詰まった一冊だ。とはいえ、死の喪失を愛で埋める……という単純なことではない。死が、どこまでも抽象的で手ざわりがないぶん、ひらたく言えば実感できないぶん、人は具体的で手ざわりがあって実感できるものに救われる。その切実で微妙な心のありようが、ひたひたと伝わってきて、胸を打たれる。
からだが大きいとか小さいとか顔が似ているとか。愛が死に対抗できるとしたら、意外とそういうフィジカルな事実、紛れもない確かさなのかもしれない。それは現実世界では、けっこうあることなのに、なぜか小説やドラマでは描かれない。たとえばどんなに美男美女であっても、見た目を通りこして心が惹かれ合うという設定が、不自然なほど多い(ような気がする)。
けれど本書は、むしろそうではなく、言ってみればミもフタもないところから出発する。そして外見やその人にそもそも備わっているものに惹かれたとして、なぜどんなふうに惹かれたかを分かち合えれば、その時点でやはりそれは心のやりとりなのだ。誰かに似ているということも、すでに表面的なことではないし、小ささは奥行きのある愛しさになる。
死と愛が描かれる過程で、特に魅力を感じたのはセックスと旅の感覚だ。愛し合った二人のドラマチックなホームランとしてではなく、打てばヒットなのに見送るとか、うっかりボール球に手を出すとか、バッターボックスに立ったけど敬遠されるとか、そういうニュアンスのセックスが、まことにリアル。特に「うっかりボール球(ネタバレになるので、比喩で通します)」の流れが好きすぎた。なんちゅう人間らしいエピソードかと思う。
台湾やヘルシンキやローマが、物語の舞台ということを超えて、もう一人の登場人物のように、私たちを包み、あたため、冷やし、豊かにしてくれる。観光やカタログではない街の息づかいが、心地いい。たとえ自分が実際に旅をしても、ここまで感じられないだろうと思った。
最後に、とても個人的なことを一つ。私には高齢の母がいて、常に体の不調を訴えている。しんどい、つらい、早くお迎えが来てほしい。愚痴を言うことで気が休まるならと、毎日電話で話を聞いているが、結局は、しんどい、つらい、早く……のループからは抜け出せない。娘としては気が重い日々だが、本書を閉じたとき、これまでにない感覚があることに気づいた。母のくどいほどの愚痴は、それを過去のこととして思い出す日がきたら、「やっとループから解放されたんだね」と思わせてくれるかもしれない。母は今、その種まきをしてくれているのだ。発想じたいにも驚くが、そんなふうに自然に思わせてくれるとは。小説ってなんて凄いんだ、としみじみ感じる体験だった。
よしもとばなな/1964年、東京都生まれ。87年『キッチン』で海燕新人文学賞受賞、作家デビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、89年『TUGUMI』で山本周五郎賞、95年『アムリタ』で紫式部文学賞を受賞。『吹上奇譚』シリーズはじめ、著書多数。
たわらまち/1962年、大阪府生まれ。歌人。近著に第六歌集『未来のサイズ』や、『ホスト万葉集 巻の二』(共編)ほか多数。