人間は生まれれば必ず死ぬし、時間は過去から未来にしか流れない。だからこそ、過ぎ去った命を呼び起こし、失った時を再生しようとする呪文や冒険物語は大衆の心を惹きつける。
本書は「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」などの句で知られる俳人・池田澄子さんの、60篇余りのエッセイをまとめたものだ。柔らかで気さくな口調で綴られた日々のこと、社会のこと、家族や友人のこと、そして老いと離別……その文中に、呼吸のように自然と俳句が現れる。
連なる文章のなかに時折挟まれる俳句は、その句のまわりの余白さえ優しい。五七五のリズムや音は読者の気分を支えたり変えたりしてくれる。少し難しい話をしていても、テーブルの上に一輪挿しがあればホッとできるように、俳句がエッセイ集をより親しみやすくしている。
池田さんは本書のなかでたびたび大切な人との別れについて書いている。幼い頃に戦病死した軍医の父、天寿をまっとうした母、俳句の友人、夫。特に俳句の師・三橋敏雄の死には幾度も言及している。曰く「加齢とは、自分に死が近づくだけでなく、周囲の親しい人たちに死が近づくことなのだと気付いて驚いた」。事実だが、なんとも残酷だ。
ところで、俳句は世界一短い定型詩だと言われている。一句は十七音で構成され、基本的には季語が入る。季語は歳時記に収録されている。誰かの所有物ではないから、他人と同じ季語を用いて句作するのも当然だし、むしろ「自分もこの季語を使ってみたい」と挑戦する楽しさもあるようだ。本書でも「御降り」など、池田さん自身が惚れこんだり、思い出深かったりする季語が話題にのぼる。
私自身は季語という概念を持たない現代短歌を詠む人間だが、俳句のこの「季語」という存在には圧倒される気持ちだ。歳時記にはその季語を含む名句も掲載されている。季語を選ぶことは、同じ季語を用いた過去の作品にアクセスすることであり、その歴史を継承する側面もある。季語それぞれに俳句の歴史が結びつき、個人の思い出も結びつく。季語からは師や友人との記憶も引き出される。言葉を知り、言葉を使い、新しい句を作ると同時に、過去が再生されるのだ。
本書のタイトル通り、過ぎ去ってしまった人に『本当は逢いたし』と思うとき、呪文でも冒険でもなく、池田さんには俳句がある、ということなのかもしれない。なんだかとても眩しい。
池田さんは「よく生きるってことは、なかなか難しい」と書いている。また、俳句の会合中に地震があったエピソードでは「無事に終わればなんでも懐かしい」と述べている。いつの日か、よく生きて無事にこの世を去り、未来の誰かからアクセスされる側になったとき、私たちは果たして「無」なのか「魂」なのか。どこでなにを思うのだろうか。
いけだすみこ/1936年、神奈川県生まれ、新潟県育ち。俳人。2021年、『此処』で読売文学賞・詩歌俳句賞、俳句四季大賞を受賞、同年、現代俳句大賞を受賞。句集に『いつしか人に生まれて』『拝復』『思ってます』他多数。
しばたあおい/1982年、神奈川県生まれ。歌人、ライター。第一回笹井宏之賞大賞を受賞後、歌集『母の愛、僕のラブ』を出版。