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勝者を讃えることの出来ない未熟さが世界に向けて露呈
今回の北京オリンピックは、なにやら釈然としない、心がささくれ立つような事件が多かった。
ジャンプ混合団体でのスーツの規定違反。
金メダリスト、平野歩夢が納得のいかなかった決勝での2本目の採点。
押したり、押されたり、転倒が当たり前のスピードスケートのマススタート。
そして極めつけは、フィギュアスケート女子、フリーの夜である。
この試合は「ワリエワ事件」として記憶されるだろうが、それだけではなく、私には銀メダルを獲得したトゥルソワがセレモニーに出ることを拒み、泣き叫んでいる場面が「地獄絵図」に思えた。
ジャッジへの不満をぶちまけ、勝者を讃えることの出来ない未熟さが世界に向けて露呈したのだ。この一連の惨劇を見ても、ロシアのフィギュアスケート界が尋常ならざる世界であり、大切ななにかが「欠落」しているとしか思えない。
今後、国際スケート連盟は、オリンピックや世界選手権に出場できる最低年齢を17歳に引き上げる案を検討していると報道されたが、適切なコーチングがな存在しければさしたる意味を持たないのではないか? と不安になる。
しかし、最後の2日間では違ったストーリーが見えた。
混沌と浄化が交錯した大会
2月19日、土曜日の夜。
フィギュアスケートのペアフリーでは、歳月を共に重ねてきた各国ペアの「時間の重み」を感じる演技に、陶酔した。
そして最終日のカーリング決勝、第9エンド終了時点で日本はコンシード、イギリスの4人を祝福した。
その潔さを目の当たりにして、私はようやく「浄化」される思いがした。
北京オリンピック、それは混沌と浄化が交錯した大会だった。