整の理解者であり、物語を見つめる存在には池本がふさわしいと思うが、これもドラマにありがちなことで、とかく男女ペアで出したがる。同性のバディを異性に変えることもしばしばだ。とはいえ風呂光がちょこまか出てくる状況は原作ファンでなくても若干うざいと感じてしまう。いわゆる「これじゃない感」である。
風呂光には罪はない。もちろん演じている伊藤沙莉にも。テレビドラマにありがちな主人公を見つめる役割を担わされてしまっただけなのだ。作り手は、風呂光に課せられた群れるおじさんたちが行き過ぎないように見張ることが彼女の存在意義であることを勘違いして、ドラマと整を見張る(見つめる)役割を付与してしまったのではないだろうか。
才能ある伊藤沙莉だからこそ…という皮肉
伊藤沙莉はリアクションがひじょうに巧い俳優である。子役からキャリアは長く、的確な表情をするし、出しゃばらないのに存在感がある。だからこそ、バイプレーヤーとして頭角を現してきたし、いまでは主演も任されるようになった。風呂光が整に励まされて自分の役割に目覚め生き生きと働き始めた物語と、伊藤沙莉が俳優として引っ張りだこになった、そのサクセス物語はどこか重なって見える。にもかかわらず、『ミステリ』では風呂光の出番が歓迎されない残念さ。
おそらく、伊藤沙莉ほどの才能があれば、原作の風呂光くらいの出番でも十分、爪痕を残すことができるはずなのだ。それこそが漫画の風呂光はちょっとしか出てこないことで逆に好感度をあげていることと近いことであろう。
残念なことに、漫画や小説なら作家が自由に登場人物の出番をコントロールできるが、テレビドラマには俳優行政と言われるようなものがあり、メインでキャスティングした俳優をちょっとしか出さないようなことはできない。そこそこの出番とアップとセリフが必要になる。
ドラマの風呂光の存在が惜しいことになった理由は、伊藤沙莉が押しも押されもせぬ俳優になったからという皮肉なお話なのだ。とはいえ伊藤沙莉の風呂光によってドラマがわかりやすくなったことも確かなのである。第10回の「友達になってあげます」も伊藤沙莉だからぎりぎり成立させられたのだと思う。