橋本遊廓は、京と大阪を結ぶ京街道の遊里として古くから栄えた。

 淀川対岸の山崎と橋本を結んでいた渡し船の船着き場にあった小屋で茶汲み女が客の袖を引いたのが起源といわれている。そして明治43年に京阪本線が開通すると、電車が客を運んでくるようになった。

まだ僅かに往時の姿を留める妓楼建築がひっそりと

 昭和33年(1958年)に売春防止法が施行されると、戦後から続いた赤線が廃止され、遊廓は街から姿を消した。しかし妓楼はそのまま残る。妓楼の経営者たちは建物をそのまま再利用できる旅館や料亭、アパート経営などへ転業していった。

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かつて妓楼が軒を連ねた橋本遊廓の「本通り」。手前の旧第二友栄楼は中国茶カフェ「美香茶楼」へ改修された

 売防法から60年が過ぎ、ほとんどの建物はすでに取り壊されてしまったが、かつての宿場町や船着き場、門前町などには、まだ僅かに往時の姿を留める妓楼建築がひっそりと残っている。他の建物とはどこか違う、華美で怪しげな雰囲気を醸した建物は少しずつ町の中へ溶け込んでいった。

 粋を集め贅を尽くした妓楼は腕の確かな宮大工が建てたので文化財としての価値がある反面、住宅としては住みにくい。住居として妓楼建築に暮らす住人の高齢化は進み、修復できる職人は少なく維持費もかかる。京都府八幡市の旧橋本遊廓に残る築80年の妓楼建築は、しばらく売りに出たまま買い手が付かず、また1つ妓楼建築が取り壊されて駐車場になろうとしていた。

旧第二友栄楼は最盛期に86軒あった橋本遊廓の妓楼で、もっとも古い築120年の妓楼だった
美香茶楼の1Fホール。床には懐かしいタイルが施されている

100年近く前の風俗案内書には…

 昭和5年に刊行された「全国遊廓案内」(日本遊覧社)は全国250カ所以上の遊廓について、妓楼の軒数や娼妓の人数、アクセスや料金などの情報を軽妙な筆致で詳細に収録した100年近く前の風俗案内書だが、橋本遊廓については八幡町遊廓の名称で以下のように記されている。