「本当の意味で投手をリードしていました」
あの香りと滋味から16年、幾多の試練を乗り越え、會澤は球界屈指のキャッチャーへと成長した。苑田は、その原風景を生き生きと語る。
「高校3年、ひたちなか球場でのホームラン。あれは凄かったです。打った瞬間、『ウワッ』という右中間への打球でした。それに、リードです。本当の意味で投手をリードしていました。『ここに投げれば大丈夫』『大丈夫、これを投げれば打たれない』。そんな雰囲気を出して引っ張っていました。それに内野手にも的確に指示を出していました」
高校通算35ホーマー。しかし、二人の価値観は、そんなところにはない。
「野手への声掛けとか、そういうところまで見ていて下さったとは嬉しいです。高校時代も、キャッチャーとして視野を広げるように教わってきましたので、そこは大事にしています。僕なんかを入団させて頂いて、多少の恩返しはできたのかもしれませんが、まだまだ感謝ばかりです」
スピードガンに頼らない。通算本塁打数などのデータを過信しない。あくまでも、己が目にした選手の姿から選手像に思いを馳せるのが苑田の流儀である。投げた、打った、それだけではない。ポジショニング、ベンチでの表情、チームメイトへの声掛け、凡退したときの表情……どこまでも視野を広げ、ベテランスカウトは選手の将来像を把握しようとしてきた。
その「眼力」を超越するシーンも目にしている
一方の會澤も、その視野は極めて広い。自分自身のプレーのみならず、野手の守備、投手の心理状態と目配りはどこまでもフォア・ザ・チームである。
「オープン戦でも、會澤が若い捕手に声を掛けている場面を見かけました。知っていることを全てうちの若い選手に教えて欲しいですね。彼には、長くやって欲しいと思います」
長打力も、リードも、人間力も、苑田の見立て通りだった。むしろ、その「眼力」を超越するシーンも目にしている。
2012年8月2日DeNA戦、9回に代打で登場した會澤は、頭部に死球を受け、救急車で搬送された。鼻骨の骨折、ヘルメットのツバは割れていた。騒然としたスタジアムの空気は多くのファンが記憶しているに違いない。
2022年3月25日、同じく横浜スタジアムで、會澤翼の16年目が幕を開けた。「あのときは、私も『ヤバい』と思いました。普通なら、打席に立つのも怖くなるくらいでしょう。でも、彼は違う。その後も、それでもボールに向かって行きます。野球に対するものが凄いです。常日頃から『逃げたら仕事にならん』という雰囲気は持っていますが、その通りのスタイルだと思います」。
ドラフト指名後、苑田は、マーティー・ブラウン監督(当時)が着用していたドラフト会場の入場パスをプレゼントした。
「今でも、実家の部屋にきちんと保管してありますよ」
スカウトの職人が見出したのは、走攻守だけではなく、まだ18歳の野球少年が胸に宿した「価値観」だった気がする。男気に溢れ、義理堅い男は、どこまでも「初心」を胸に、34歳のフル回転を誓う。
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