「志村さんの付き人時代のお話や、教えていただいたことを自分の言葉で伝えるというのが僕のここ十年来の夢でした。その夢は新聞のコラムや書籍、ドキュメンタリー番組というかたちで叶いましたが、皮肉にもそれらはすべて志村さんが亡くなったことで僕に来たお仕事でした。今も志村さんの名前をお借りしているままなので申し訳なさの気持ちの方が大きいですが、その芸に対する厳しい姿を責任を持って語り継いでいきたいです」
2020年3月29日に新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった志村けんさん(享年70)。昭和、平成、令和とお茶の間を笑わせ続けた“笑いの神様”志村さんの傍に7年間365日ずっと付き添っていたのが、付き人兼運転手だった乾き亭げそ太郎氏(51)だ。現在は故郷で鹿児島テレビ(KTS)のタレントとして活躍する氏は、志村さんの3回忌を前に以下のように想いを語った。
「最期の別れをできなかったせいか、今も現実味がないのが正直な気持ちです。ただ、街で番組のロケをしていると、僕にアイーンをしてくる志村さんのファンの方が多くいて、日本中の方に愛された偉大な師匠だったと改めて思います。特に周りに気を配ることに厳しい師匠でしたが、志村さんのもとを離れたら、それがすべて自分への優しさだったということが身に染みてわかります。相手が何をしたいのか、それを先取りすることは芸に繋がります。まだまだ志村さんのことを知りたい方がたくさんいるので、僕の知っている志村さんを皆さんにお伝えしていきたいと思っています」
笑いの神様は今も皆の心の中で思い出とともに生き続けている。志村けんさんの知られざる私生活から笑いの哲学、師匠と弟子の秘話を収録した記事を再公開する。(初出:2020年4月11日 年齢、肩書等は当時のまま)
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「他の人が知らない志村さんを僕はたくさん知っています。すごく大切なものを教えていただき、弟子のときは一緒にいることが当たり前でしたが、離れてより志村さんの存在の大きさがわかります。志村さんと一緒にいられた時間は贅沢で本当に夢のようでした……」
そう語るのは、3月29日に新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった志村けん(享年70)の弟子で、現在は故郷の鹿児島でタレントや、ご当地レポーターとして活躍する乾き亭げそ太郎氏(49)。「志村けんのバカ殿様」(フジテレビ系)ではメガネをかけた家来として出演。
90年代に「ドリフ大爆笑」や「志村けんのだいじょうぶだぁ」(ともにフジテレビ系)など多忙を極めた志村と7年間、365日ずっと傍らにいたのがげそ太郎氏だった。師匠の突然の訃報を受け入れられず、一度は取材を断られたが、「志村さんの芸に対する思いを少しでも皆さんに伝えられたら」と、「文春オンライン」にこれまで語られることのなかった“師匠・志村けん”の横顔を明かしてくれた。
「師匠と呼ばれるのは恥ずかしいから『さん』付けで」
げそ太郎氏が師匠・志村との出会いを振り返る。
「子どもの頃からドリフターズの志村さんが大好きで、94年11月、23歳のときに芸人になりたいと思って鹿児島から上京しました。志村さんの番組を観ていたらいつも番組のエンドロールに『イザワオフィス』と書いてあったので、事務所に行けば志村さんに会えるかもしれないと思って、なんの連絡もせずに事務所を訪ねました。そしたら、ちょうど志村さんの運転手を募集していて、面接を受けたら合格したんです」
げそ太郎氏が初めて志村と顔を合わせたのはその1週間後。麻布十番にある志村の行きつけの喫茶店だった。
「緊張してあまり記憶がないのですが、志村さんに『芸人を目指してオレのところに来ても、教えることはないぞ』と言われました。そのときに僕が『これからは志村さんのことを師匠と呼んでいいですか?』と聞いたら、『芸人たちはオレを師匠と呼んでいるけど、自分の弟子から師匠と呼ばれるのは恥ずかしいから「さん」付けでいいから』と言われました。なので、僕は志村さんのことを一度も“師匠”と呼んだことはなく、今でも“志村さん”と呼ばせていただいています」