1996年10月24日。僕はいつものように仕事場であるグリーンスタジアム神戸の映像操作室の重い扉を押した。この年、オリックス・ブルーウェーブは2年連続でリーグ優勝を飾り、前年には届かなかった日本一にあと1勝と、王手をかけていたのだ。

 震災の傷跡が色濃く残る神戸において、そこに根付いた市民球団の“ブルーウェーブ”はまさに復興に向かう街の象徴であり、人々の希望の灯であった時代だ。

 この“お噺”に登場する“僕”とは、オリックス球団からビジュアルプロデューサーという、なんとも大仰な肩書きを拝命した球団スタッフで、球場の映像や音響の演出を任せられ、同時に映像操作室の窓ふきから清掃までを任されたいわば、“何でも屋”である。

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決戦前の幸喜さん

 本題のストーリーに話を戻そう。ブルーウェーブの相手は長嶋茂雄監督率いるジャイアンツ。3勝1敗と、悲願の日本一に王手をかけていたが、チームに楽勝ムードはなかった。

 チームとして「何としても地元・神戸のファンの前で胴上げを!」という強い気持ちで満ちていたのは間違いないが、この一戦を落とせば、舞台はジャイアンツのホームに移るわけで、敵地での戦いの厳しさを知る仰木彬監督のこの日の第5戦に懸ける想いは並でなかった。

 午後4時半。西に傾いた秋の太陽が、3塁側ベンチ上に位置する映像操作室を正面から照らしている。日除けのブラインドの隙間から漏れこぼれたか細い幾本かの光が、その部屋に似つかわしくない大男の顔を射している。

「あれ、幸喜(こうき)さん、ここで何をされているんですか?」

 幸喜さんとは、岡田幸喜。オリックス球団のスコアラーだ。スコアラーの中でも、“先乗り”という対戦相手の偵察や戦力分析を専らとする職人である。無論、元プロ野球選手で、1968年と1969年にはジャイアンツとの日本シリーズに出場した阪急ブレーブスの元捕手だ。

 額に刻まれた深い皺と赤銅色に焼けた精悍な顔つきは、まさにプロフェッショナルのそれ。ただ、知らない人が街中で幸喜さんとすれ違おうものなら、間違いなく道を譲ってしまうほどの風貌であることは付け加えておかなければなるまい。

 そんな幸喜さんは双眼鏡を両眼に添えたまま、黙ってジャイアンツの練習を追っていた。予期せぬ来訪者に、いつもの定位置を奪われた僕は、しかたなく幸喜さんの横に座って、その日の演出スケジュールに目を通していた。

仰木監督 ©文藝春秋

ジャイアンツの先発は、斎藤か川口か

「わからん。まったくわからん」

 幸喜さんは絞りだすように独り言ちた。

「どうしたのですか、幸喜さん……」

「巨人の先発投手が読めんのや。(監督の)仰木さんから“相手の先発投手を探れ”と言われているんやが、それが誰だかわからんのや」

 幸喜さんの手元に目を遣れば、細かい手書きの文字で埋められたノートがあった。そこには、その日先発する投手が行う試合前練習メニューが記されている。ダッシュの本数、遠投の数など、投手が先発前に行うルーティーンの詳細は事前に調べがついているのだ。

 先発投手が予告されることがなかった時代には、相手先発を戦前にいかに察知するかという舞台裏のせめぎ合いがあった。殊に、相手投手によってオーダーを大胆に変えてくるマジック采配を真骨頂とする仰木野球においては、敵の先発投手を読み切る所から勝負は始まっていたのだった。

「普通ならもう負けられない巨人からすれば、中4日でエースの斎藤(雅樹)なんやろうけど、(仰木)監督は、“左の川口(和久)の可能性も捨て切れん”と言うてはるんや」

 確かに、常識的に考えるなら先発はエースの斎藤だろう。しかし、そのシーズン、先発も任されていた川口はシリーズ第1戦、2戦のリリーフ登板で僅か1イニングしか投げておらず、中3日の登板間隔を考えれば、十分に“その線”もありなんというものだった。

 その証拠に、各スポーツ紙の先発予想は、斎藤と川口で割れていたのである。

「右サイドハンドの斎藤と左腕の川口ではタイプが全く違う。どちらが先発するかで、ウチの先発オーダーはガラリと変わる。監督に何と報告すれば良いか……」

 ベテランスコアラーは焦っていた。重要なミッションは、歴戦の猛者の風貌漂うスコアラーに大きなプレッシャーをかけていたようだ。脇に置かれたブラックの缶コーヒーが冷めるほどに時間が過ぎても、幸喜さんは結論を出せないでいる。

 そんな幸喜さんを横目にしながらも、僕には僕の仕事があり、日本一に上り詰めた際の、セレモニーの段取りやチェックに時間を取られていた。

 果たして、目から双眼鏡を外した幸喜さんが僕の名を呼んだ。

「大前君、君はどう思う?」