立浪新監督を迎えた2022年の中日ドラゴンズ。開幕こそつまずきましたが、先週末の3連勝で持ち直しましたね。投手陣がしっかりしているだけに、今後もチームが大きく崩れることはないでしょう。補強がなかったので若手打撃陣の成長が鍵なことは言わずもがな、ですが。
さて、筆者カルロス矢吹は、2月に「日本バッティングセンター考」という、日本のバッティングセンターに関する本を出版しました。
なぜ突然こんな話を始めたかというと、断じて宣伝ではなく、この本の取材を進める内に、立浪ドラゴンズが優勝するためのヒントを、あるバッティングセンターからもらったからです。ただ、あくまでバッティングセンターの本なので、拙著の中では中日ドラゴンズの話はそこまで出来ませんでした。そこで、文春野球コラムでは1人のドラゴンズファンとして、取材の秘蔵エピソードを披露できればと存じます。
ドラゴンズが使用していた日本最古のピッチングマシン
そのヒントをくれたバッティングセンターとは、岐阜県岐阜市にある「中日バッティング」。まず、「中日」という名前がついている点が素晴らしいですね。実はここに、1954年から中日ドラゴンズが使用していた日本最古のピッチングマシンが展示されている。この「1954年」という数字にピンときたドラゴンズファンも多いでしょう。そう、天知俊一監督に率いられ、球団創設初の日本シリーズ制覇を達成した年です。
(なお、熱心なプロ野球ファンのために注釈を。東京ドーム内に併設されている野球殿堂博物館に「初の日本製投球機 1958年制 中日ドラゴンズが使用」と紹介されて展示されているピッチングマシンがありますが、これは「初めての国産」という意味で、本当に初めて使用されたのは中日バッティングセンターに展示されているものです。後述しますが、こちらは米国からの輸入品でした)
この「日本最古のピッチングマシン」がどんな働きをしてくれたかに関しては、数多くの証言が残っています。まずは大本営たる中日スポーツに、こんな記事が掲載されていました。
<1954(昭和29)年、ドラゴンズは日本一に輝いた。栄光の陰には「カタパルト式打撃マシン」という秘密兵器があった。手動ながら球を繰り出す機械で、日本球界で初めて取り入れ、これで投手の負担を軽減。球団史上唯一の日本一に貢献した。当時使われたとされるマシンが、岐阜市のバッティングセンター「中日バッティング」に保管されていた。(中略)
このマシンのリーグ優勝と日本一への貢献度は大きい。54年のペナントレース。前年より打率は5厘アップの.256、本塁打は4本増しの70本だったが、投手の防御率は3•24から2•32に向上した。当時は専属の打撃投手もおらず、主力投手も頻繁に打撃練習に登板した時代。投手の負担軽減に役立ったわけだ。(中略)ナゴヤ球場の名物グランドキーパー・永田向平さん(64)は入社3年目の64年にキャンプに参加したが、マシンの調整が仕事だったそうだ。「当時はまだ手動だったね、自動になったのは昭和四十年代の半ばだったんじゃないかな。>(平成19年10月25日付・中日スポーツ)