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「時代に合わせて教育も変化しなければ…」の落とし穴 “それだけで価値がある”学校とは?

その校風にはわけがある。超名門校の意外な由緒と歴史トリビア#2

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 1870年に築地居留地内にプロテスタントの宣教師の妻がつくった私塾が女子学院の源流だ。1872年にはカトリックの修道女が横浜に孤児院や寄宿学校をつくった。それが横浜雙葉のはじまり。修道女らは続いて1875年に東京にも同様の施設をつくる。それが現在の四谷の雙葉となる。1873年にプロテスタントの女性宣教師らが神戸に開いた私塾がのちに神戸女学院になる。

 1899年、これらのキリスト教学校は前述の訓令第12号によって決断を迫られる。正式に高等女学校となって宗教教育をあきらめるか、正式な学校として認められることをあきらめて宗教教育を続けるか。

 雙葉は高等女学校の認可をうけつつ、したたかに生き残った。面従腹背である。しかし女子学院と神戸女学院は、正式な高等女学校になることを見送った。

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 正式な学校に認められないと、女子高等師範学校など大学相当の教育への接続が得られない。そこで女子学院は自前で高等科をつくり、それが東京女子大学に発展する。神戸女学院は自前でつくった高等科を専門学校という扱いにし、高等女学校に相当する課程をその付属普通部とした。

 それぞれのサバイバルだった。

 19世紀末の埼玉には約10年もの間、男子が通う中学校がなかったことは前述のとおり。当然ながら女学校もなかった。県が動かないので民間団体が立ち上げた私立女学校が、浦和第一女子のルーツである。1899年に高等女学校令が出ると、これが公立に移管された。

 なお、戦後は全国の多くの地域の旧制中学や高等女学校が共学化したのに、前出の県立浦和も浦和一女も別学で存続したのは、埼玉以北のGHQの担当官が、共学の原則よりも地域の意向を尊重したためといわれている。

塾高、早大学院で第二外国語必修は大学予科の名残

 1877年、原初の東京大学がつくられた。以後20年間、これが日本で唯一の大学だった。

 東京大学に進学すべき生徒のために東京大学予備門(予科)も設置された。そこで東京大学で学ぶための予備知識、特に英語を身につけておかなければならなかった。当時の東大の授業は外国人教師によって執り行われていたからだ。つまり東京大学予備門の入試が最難関だった。