東京女子高等師範学校は中等教育の教員を養成する官立学校の最高峰だった。その教育実践の場として附属高等女学校は存在した。それが現在のお茶の水女子大学附属高等学校である。
筑波大学附属駒場の成り立ちは複雑難解だ。詳細は省いて結論をいえば、戦前のエリートコースであった東京帝国大学と東京高等師範学校のハイブリッドな系譜を受け継いでいる。
もともとは地域の農家の子息に対し、農業教育を行う予定であった。いまでも学校の近くに水田があり、中1と高1で水田学習を実施するのはその名残だ。地域の発展に伴いそのニーズが消滅。しかたなく進学校になった。その結果が東大合格率全国1位である。
古い学校にはそれだけで価値がある
以上のような壮大な歴史的文脈のうえに、各校の現在の校風がある。
学校とは、校舎があって教師がいて生徒が集まればできる無機質なシステムなのではない。ひとの成長に時間が必要であるのと同じように、学校も時を経て成熟するものなのだ。逆にいえば、古い学校は、それだけで価値がある。
「時代は変化しているから教育も変化しなければいけない」というのは半分正しくて半分間違っている。時代の変化とともに、人々に求められる能力はたしかに変化するが、人間の本質が変わるわけではない。
教育をいじるのであれば、どこを変えるべきで、どこを変えてはいけないのかを明確に区別しなければならない。不易と流行である。建学の精神や教育理念など、不易の部分を変えてしまったら、その学校はその学校でなくなる。
外圧によって名門校をいじり回すことは、樹齢数十年・数百年という大木にチェーンソーの歯を当てるようなもの。その罪深さは誰でも直感できるだろう。やってしまってからでは取り返しがつかない。社会的な大損失を意味する。
翻って、我が国の教育。何が不易で何が流行か。巷の教育議論を聞いていると、流行の部分に関しては十分な議論がされているように思う。しかし不易の部分については十分な議論がされているようには思えない。
いまこの国に、本当に「教育危機」が存在するのであれば、それは子どもたちの学力低下や教員の質の低下などではなく、本質的に、教育における不易が十分に議論・理解されていないことだと私は思う。