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【追悼】「手塚先生が僕の描いた“吹雪”を気に入ってくれた。いまだに嬉しくてしょうがないんですよ」 藤子不二雄(A)が語る“兄弟のような”トキワ荘の漫画家たち

【追悼】「手塚先生が僕の描いた“吹雪”を気に入ってくれた。いまだに嬉しくてしょうがないんですよ」 藤子不二雄(A)が語る“兄弟のような”トキワ荘の漫画家たち

藤子不二雄(A)さんインタビュー#1

2022/04/07
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――それも、テラさんの求心力のおかげかもしれませんね。

(A) そう思います。僕らがトキワ荘にいたのは5年間ですけど、そういう非常に良い相乗効果が働いたおかげで、付き合いは一生続きました。みんなトキワ荘を出て、それぞれの道を行ったけど、結局、いつでも気持ちはトキワ荘に戻ってくるんですよ。

手紙で会いに行きたいと書いたら、来てくださいと

――(A)先生がF先生(藤子・F・不二雄/藤本弘)とともに漫画家を志されたきっかけは、『新宝島』(原作・構成:酒井七馬、作画:手塚治虫)に触発されてだそうですね。

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(A) はい。それ以降もずっと手塚先生の大ファンだったので、高校生の時に手紙でファンレターを出したらお返事が来て、先生と文通がはじまりました。それで会いに行きたいと書いたら、来てくださいと。住所を頼りに宝塚のご自宅にうかがったんですけど、呼び鈴を押して中から声が聞こえたら、怖くなっちゃってね。思わず逃げ出しちゃった(笑)。先生のお母さまが出てきて僕らを探し出し、無事家に入れてくれましたけど。

――手塚先生の仕事場は?

(A) 広くて、8畳くらい。執筆中の先生の背後に編集者が3人、でーんと控えてるんですよ。だから、とても話なんてできるムードじゃない。僕ら、1時間くらいはいたかなあ。先生は原稿を見たらと言ってくれて、見せてもらったけど、ほとんど会話はしてないんです。でも、僕らとしては大感動でした。

※写真はイメージ ©iStock.com

手塚治虫の通いアシスタント

――次に会われたのはトキワ荘ですか。

(A) ええ、それから2年ほど経ってからですね。上京した日に両国の下宿に向かわず、荷物を持ったまま直接トキワ荘を訪ねました。すると、ちょうど手塚先生がお仕事されてたんです。当時の手塚先生はものすごく忙しいから、ほとんどトキワ荘にはいなかったんですよ。出版社が手配した旅館なんかに缶詰にされているから。だけど、その日はたまたまいらっしゃった。そこで、僕は先生のお手伝いをしました。

――お手伝い?

(A) 編集者が先生の原稿のベタ(黒く塗りつぶす作業)やライン(枠線等)引きを手伝ってたんですが、見てらんないほど下手でね(笑)。それで僕、手伝いましょうか?って言ったら、先生が「やってもらえるなら嬉しいです」と。で、藤本氏が荷物を持って両国の下宿に行き、僕だけ残って作業しました。それから4日間も(笑)。

――ずっと泊まり込みですか!

(A) ええ。その後も先生を手伝いに、よくトキワ荘に通っていました。