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中学生にして描いた「人生の設計図」

 それでも2人目の子供であるKōki,を2003年に儲けてしばらくして、少し時間がうまく使えるようになってくると、再び歌をやりたいという思いが湧いてきた。2005年にはシングルとしては6年ぶりの新曲「Lotus~生まれし花~」をリリースする。歌手活動再開にあたっての心境を当時、次のように語っていた。

《仕事の中で、いちばん好きなのが歌で、その中でももっとも好きなのがレコーディングなんです。楽曲がきて、この曲をどんなふうに歌おうかな、どんな声質にしようかな、どんな歌い方をすればこの歌がいちばんよく聞こえるんだろうと考えながら作ってゆくプロセスが楽しいんですよ》(※4)

ソロデビュー曲「禁断のテレパシー」(1987年)

 そんな工藤は、幼いころから両親が共働きだったこともあり、現実的で自立心の強い子供だった。芸能界入りとともに親元を離れると、中学生にして“人生の設計図”を描き、将来ひとりで食べていく術を考えていたという(※5)。売れ始めて金銭感覚が変わっていくのがいやで、給料の管理も最初からすべて自分でしていた。親任せにしなかったのは、こんな複雑な世界に親を巻き込みたくないとの思いからだった(※6)。

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事務所の敷いたレールを走らされる違和感

 売れてからというもの、事務所の敷いたレールを走らされる違和感がいつもつきまとった。そのために19歳ぐらいまでは信用できる人を見つけられず、周囲に心を閉ざしていたという。それでもスタイリストやヘアメイクに自分で納得できる人を選ぶなど、自らの意思や好みを通すための努力は惜しまなかった。

 中島みゆきに歌をつくってもらうというのも工藤から提案して実現した。中島が詞を書き下ろした「FU-JI-TSU」「MUGO・ん…色っぽい」(以上、1988年)、「黄砂に吹かれて」(1989年)、「慟哭」(1993年)などはいずれもヒットとなる。

「MUGO・ん…色っぽい」(1988年)

 工藤は10代でソロデビューしたときから、大人びたアンニュイな雰囲気を醸し出していた。中島による歌詞もそれに合わせるように、街で再会した元カレがまるで初めて会ったかのような顔をするのに対し「不実です」とぶつけたり(「FU-JI-TSU」)、別れた男がなかなか忘れられず、彼に似た人も彼よりやさしい男も「砂の数よりいるのにね」と嘆いてみたり(「黄砂に吹かれて」)と激情的だった。のちにはずばり「激情」(1996年)という曲を、詞だけでなく曲も中島から提供されて歌っている。

 1994年のシングル「Blue Rose」では初めてセルフプロデュースを手がけた。これと前後して1989年のアルバム『カレリア』以来、愛絵理(あえり)というペンネームで自ら作詞も手がけており、2018年には同名義の全楽曲を収めた『愛絵理コンプリートアルバム』もリリースしている。