新聞14紙を購読しての読み比べが趣味で、時事芸人として各メディアで発信を続けるプチ鹿島さん(51)。実は芽が出るまでの紆余曲折は数知れず、遅咲きの人でもある。「バイトを辞めて生活できるようになったのが40越えてから」という鹿島さんが「謎の自信」を持ちながら好きなことを仕事にできた理由を聞いた。(全2回の1回目。#2に続く)
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時事ネタ芸人を目指していたのか?
――文春オンラインでの新聞読み比べコラムも連載6年目。プチ鹿島さんはスポーツ紙、夕刊紙を含め14紙を購読しているんですよね。毎日、目を通すルーティンに苦しくなることはないですか。
鹿島 もう「たしなみ」の域ですからね。1紙だけ読んでいるより楽というか、やっぱり楽しいんです。電子版で読むものもありますが、毎朝、ポストに入りきらない新聞がドサっと置き配されていくのにも慣れました。午前中に2時間、見出しや記事の切り口を読み比べる時間を取っているんですが、1紙を隅から隅まで読むよりも疲れないし、興味のあるニュースについての土台ができていく感じがします。
――今や「時事芸人」という肩書きでの活躍をされていますが、もともと時事ネタをやる芸人を目指していたんでしょうか。
鹿島 いえ、コンビ時代にオチで時事ネタっぽいものを使うこともありましたが、基本的には堪能する側でした。特に政治分野は好きすぎて新聞や書籍を読んでいるだけで十分でした。
時事ネタ全般が好きなのは、高田文夫先生の影響ですね。子どもの頃、たけしさんのオールナイトニッポンを聴いてたんですが、次第にスタジオで嬉しそうに笑って絶妙な合いの手を入れる人のほうが気になり出して。そのうち本も探して読むようになって、ますます好きになりました。高田先生が日大芸術学部出身だからって、受験の際には日芸目指してたくらいです。結局、推薦合格していた大阪芸大の放送学科に入るんですけど、高田先生への憧れは募るばかり。2~3カ月に1回のペースで夜行バスで上京して、紀伊國屋ホールや安田生命ホールで高座に上がる先生を観に行ってました。
――立川談志に入門して、落語家の顔も持っていますもんね。
鹿島 立川藤志楼として語る時事を絡めたマクラが本当に楽しみで、高田文夫フリークとしてはどんなネタが出ても、即座に反応できるくらいの気構えで行くわけです。ところが、周りのファンも同じくらいワァーっと盛り上がってる。「高田先生のネタは俺だけがわかってる」という自惚れが、見事に崩れるんですね。そして、東京のファンはどうやら高田先生の『ラジオビバリー昼ズ』という番組を聴いているらしい。しかもそのオープニングトークが面白いらしい。だから会場ですぐに反応できるんだ、と気づいてしまう(笑)。
ボロアパートで知った“地下鉄サリン事件”
――若き日の挫折ですね。
鹿島 そうです。大阪から通っている俺は何だと。それでバイトでお金を貯めて、大学を卒業してすぐに東京に来ました。就職活動もしてません。その時は芸人になるかも、放送作家になるかもよく決めてない。とにかく『ビバリー昼ズ』が聴きたかった。
2万円くらいの新高円寺のボロアパートを借りて、働きもせず、とにかく朝11時くらいに起きて『ビバリー昼ズ』を聴く。そんな日々を過ごしていた95年の3月20日に地下鉄サリン事件が起きます。11時くらいに目を覚ましてラジオをつけると、いつもの陽気な雰囲気じゃないんです。あの時の「エッ?」という感じは忘れられないですね。そして同時に、自己嫌悪に陥ったんです。