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 男性の使用人は「表」、生活の場である「奥」には「老女」や「お次」と呼ばれる女性たちがいて、子どもたちが学校へ通う際の「お付き」もいたそうです。

 祖父の慶久は、母が生まれる半年前に37歳で急死していますから、女所帯でした。これは私の推測ですが、そのあとは渋沢栄一が援助していたのかな……とも思っています。大河ドラマの『青天を衝け』でも描かれた通り、栄一は慶喜の家臣に取り立てられて重用されたので、とても感謝していたようですから。

最後の将軍・徳川慶喜 ©文藝春秋

――そんな環境で、久美子さんはお姫様として育てられたわけですね。

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井手 ところが本の題名の通りに母はお転婆で、石垣を駆け上ったり庭で木登りなどしては、お次から「大将軍のお孫様が……」と小言を言われていたそうです。

 あるとき、年子の姉の喜佐子と「カルピスがあと少し残っていたから飲もう」と学校から喜んで帰ってきたら、栓が飛んで中にハエが入っていた。飲もうか捨てようか1時間以上悩んだそうですが、「断腸の思いで捨てた」と、80歳や90歳になってからも振り返っていました。

 お姫様なのに「もう1本持って来て」と言わないところが、しつけなんでしょう。お菓子処という部屋へも、甘い物が欲しいときにこっそり取りに行ったそうです。何かにつけて「慶喜公のお孫様が」と言う“しつけばあさん”みたいな人たちの目が光っていたんですね。

©文藝春秋

「徳川のお姫様が来る!」

――昭和16年9月に、松平康愛さんと結婚されました。仲人は会津藩主・松平容保の六男・恆雄夫妻。福井を訪問されたときは、市をあげての大歓迎だったようですね。

松平康愛さん(『徳川おてんば姫』より)

井手 「徳川のお姫様を嫁にもらった」というので、地元は大騒ぎだったようです。福井駅を出たら、道路の両側に子どもが並んで旗を振ってくれた。その真ん中を車で通ったときは、嬉しさと恥ずかしさで「夢のような世界だったわ」と言っていました。

松平氏との披露宴。帝国ホテル孔雀の間にて(『徳川おてんば姫』より)

一転、リヤカーを引く生活に

――しかし3カ月後に戦争が始まると、康愛さんは出征。久美子さんも八王子の農家に疎開して、苦労をされました。ジャガイモを背負って歩いたり、リヤカーを引いたり。ずっとお姫様暮らしをしていたのに、よく馴染めましたね。

井手 何かやることが、とにかく好きでしたから。「背中があざだらけになった」と笑っていました。それだけの家で育てばわがままが出ても仕方ないと思うんですけど、不思議な人ですよね。

 空襲のときは 焼夷弾から家を守るために、屋根に上って必死に水をかけたそうです。なかなか勇ましい人でした。