忘れちゃうのが怖いから、たしかな形で残しておきたくて
――読者にとっては、滅多にない体験を克明に伝える文章が読めるのはうれしいかぎり。そうした何か特別な時間を記録にしっかり残したいという欲求は、もともと強いほう?
「残しておきたいなという意識はあります。何か書くときもアートをつくるときだって、『そのとき』を捉えて残そうという気持ちは強いです。なんだかいつも『いましかない!』って感じがすごくある。
どんなに残って耐えたものでもいつかは宇宙の藻屑となり、ほぼ消滅することは理解しています。でも、『今』っていうのはこの瞬間の最大限のパッケージであり完璧な存在なんです。だからそのカケラを集める気が働くんでしょうか。
わたしはふだんから写真をすごくたくさん撮るんですよ。SNSにアップしたりするかどうかは関係なく、きょう起きたことや食べたものを忘れてしまわないようにと、何でも撮っておきたくなるんですよ。撮ったらひとまず満足して、別に見返したりもしないんですけどね。
写真は正確にその場のことを残せていい。ああ、そう考えると、文章を書きたいと思ったのも同じ理由ですね。忘れちゃうのが怖いから、たしかな形で残しておきたくて、書こうとするのかも。
しかも、私の実感からすこしもズレないものを残したいから、ナマの感情が残っているうちに正確に書き残しておきたくなる。そうやって書き続けて、1冊分の文章が溜まったのが『はい、こんにちは』という本なのかなという気もしますね」
私は完全なる死を産んでしまった
かつては生きてる限りは体験しえない死が楽しみでいつ死んでもいいような、もう半分死んでいるようないないような、緩やかなる死の渦中にあり、死後の魂もあるようなないような曖昧な輪郭で存在していた。しかし、今ははっきりと死が怖い。
(『はい、こんにちは』)
――出産という「生」の話があるいっぽうで、本書を読んでいると「死」のこともよく出てくるのに気づいて驚かされます。
「物心ついたときから『死』というものに囚われているところはあります。誰かにすり込まれたんでしょうか。いつもそういうことを考えたり感じたりしてしまう。本当はそんなこと考えずに生きてみたいですが。だから自分の生活を書いていても、ごく自然に死のことが盛り込まれていく。出産してからの原稿にもわたしは、
『私は完全なる死を産んでしまった』
と書きました。それまでなんとなく輪郭を曖昧にさせてなんとかやり過ごしていたのに、直接対決になってしまった。しかし、死に携わるというのは、逆に言えば、生にも深く携わるということにもなりますからね。そこは表裏一体になっているのでしょうから。
その、生との出会いを機に生きることを、ぼんやりとやり過ごしたりしないようにしたいなと思うようになったんですよね。人生の場面が転換したような実感があります」