良くも悪くも頭にかすり続けるんですよ
――記憶に形があるとは不思議な感覚ですね。記憶の中の物体の形ではなく、もっと抽象的な形ということ?
「記憶に残るのは些細な出来事も多くて、良くも悪くも頭をかすり続けるんですよ。たとえば踏んづけられて中身の飛び出たライターが道端に落ちていたくらいのことなんですが、壊れたライターの様子がそのまま記憶として刻まれるというよりは、その形状に至ったであろう過程のストーリーまでついてきます。
それをまさに心で見るというか気持ちで見るというか、あれこれつぶさに観察していく。記憶の形を見ることに没頭していると、あっというまに時間が経ちます。わたしは書くこと自体はスラスラできるんですけど、記憶を眺めることを含めると、なかなか時間がかかります。
『はい、こんにちは』はもともと文芸誌『新潮』に連載していたもので、月に一度締め切りがくる。わたしは1ヵ月ってあっという間に過ぎるんですよ。校了したと思ったらもう次のタイトル決め。テンポがあったおかげで2年弱の間、いい感じで続けていくことができました」
やらないよりやったほうがいいでしょう?
――執筆時期は世間的にもエリイさんにとっても変化の激しいタイミング。世界がコロナ禍に見舞われ、そんな中でご本人は初の出産を迎えられました。妊娠しているときや出産当日の様子が迫真の筆致で綴られて読み応え満点です。出産当日のことはあまりの辛さと衝撃で記憶があまりない人もいると聞きますが、なぜこれほど克明に描写できたのでしょう?
「出産後すぐに〆切がやってくるな、とは臨月のときに思っていて。こんな機会は一生でほぼないから残したかった。出産後すぐに頭の中で構成を考えて、10日目には原稿を仕上げて提出しました。大変でしょうから休載しますか? と編集部からは言ってもらえたんですけど、いえやりますと答えました。
やらないよりやったほうがいいでしょう? それに出産のことはすごく書きやすかった。印象的な出来事っていうのもそうですが、何よりおもしろかった。おもしろいっていうのは、滅多にできない知らない体験ができたという意味で」