受刑者向け求人誌「Chance!!」を創刊し、刑務所を出た人が直面する再就職問題の解決に取り組む三宅晶子さん。
実は三宅さん自身も“荒れた”学生時代を過ごしていたという。不良に憧れてバイクの無免許運転や家出で警察に補導された少女時代、三宅さん自身はどんなことを考えていたのだろうか。(全3回の2回)
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――三宅さん自身も、新潟で育った中学生から高校生の頃はだいぶ“荒れて”いたそうですが、今振り返ってどうですか?
三宅 小学生までは学級委員をやるような真面目な子供だったんですが、中学1年生から高校を中退するまでは明確に非行少女でした(笑)。私は1971年生まれで、「ビー・バップ・ハイスクール」の直撃世代です。ヤンキー文化に憧れてしまい、中学生でタバコ、酒に手を出し、夜遊びや万引きやバイクの無免許運転とお決まりのコース。少年院には入らずすみましたが、警察署に連れて行かれることは何度もありました。
入ったのは、「ヤンキーとアバズレを煮詰めたような」女子校
――どんな家庭環境だったんでしょう。
三宅 両親はどちらも銀行員ですが、バリバリの共産党員で革命家のような夫婦でした。父も母も勤め先の銀行を相手に裁判をしていて、父は定年制の延長を求める裁判、母は男女間の賃金格差の是正を訴える裁判。私から見ても正義感が強くて行動力がある両親で、小さい頃から世界中で一番尊敬していました。
――三宅さんがグレたのは、家庭内不和などが原因ではない、ということですか。
三宅 「私はこの立派な両親を超えられない」というプレッシャーはありました。あとは2人とも仕事と裁判で忙しく、遊んでもらったり話を聞いてもらったりする時間は少なかったかもしれません。とはいえ非行に走る直接的な原因は、両親の影響より自分が不良に憧れたことが一番ですね。
――中学生でタバコにお酒、夜の街を徘徊という状況から、それでも高校には進学されています。
三宅 私は受験をするつもりはまったくなかったんですが、中学3年生の時の担任からほぼ命令のような形でいくつか高校を受験しました。合格発表の日もどうせ落ちたと思って遊んでいたら、なんと1つ合格。でもその女子校はヤンキーとアバズレを煮詰めたようなところで(笑)、しょっちゅう誰かがケンカを売りにくるわ、下校時刻になるとお迎えの暴走族仕様の車やバイクが校舎のまわりを囲むわで。そこに自分の彼氏もいたので人のことは言えないんですが(笑)。あっという間に行かなくなりました。
――高校へ行かずに何をしていたんですか?
三宅 学校はつまらないし当時は親との仲も険悪だったので、彼氏と一緒に暮らし始めて、バイトに明け暮れる生活を送っていました。