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――そして、大学へ進学。

三宅 早稲田大学の第二文学部に合格したときには23歳になっていました。大学では英文学専修に進んで、少林寺拳法部では今の夫とも出会いました。最初は教師になろうと思って教員免許を取ったんですが、途中で重要なことに気がついてしまったんです。

――重要なこととは何でしょう?

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三宅 教育実習の最中に、「あ、私は学校が嫌いだった!」って気づいてしまったんですよ(笑)。考えてみればそりゃそうなんです。中学も最初の高校も、自分で行くと決めたはずの予備校さえなかなかちゃんと行けなかったんですから。目的がなければ1秒でもいたくない場所。だから教員免許は取ったけど教職には就かず、卒業後は輸出入代行業の会社で3年働きました。その後、北京とバンクーバーへの語学留学を経て、33歳で商社に就職。その会社には10年勤めたので、飽き性の私としては長く続いたなと思います。

27歳で早稲田大学を卒業

――なぜ辞められたんですか?

三宅 昇給や昇進が年1回のペーパーテストで決まるのが嫌だったんですよね。毎日仕事を頑張っていても、テストの成績が悪ければ降級して給料が落ちるんです。辞める数年前からその時期になると毎年体調を崩していたんですが、それがテストが嫌すぎるストレスのせいだと気づいて、2014年に43歳で退職を決意しました。

「未来を諦める言い訳」や「頑張れない理由」の存在

――その頃に友人の社長さんに「引きこもりや出所者が社会に出るための学校をつくるから、先生になってくれないか」と声をかけられたことがきっかけで、受刑者の採用支援をはじめられたんですね。

三宅 当時は次の仕事を探していたし、「誰かの人生の背中を押せるような仕事に就きたい」という思いもあったので、それならばそうした人たちに会って話を聞いておこうと、2014年秋から少年少女のための自立支援団体や受刑者支援の団体でボランティアをさせて頂きました。受刑者向けの採用支援という方法に気づいたきっかけは、鹿児島県の奄美大島にある自立援助ホームに滞在している時に親しくなった17歳の女の子でした。

©文藝春秋 撮影/宮崎慎之輔

――何があったんでしょう。

三宅 彼女は両親から虐待を受けたり育児放棄されたりして、人生のほとんどを施設で過ごしていました。私が東京に戻ってから半年後に手紙が来て、窃盗で捕まって今は少年院にいると書かれていたんです。彼女がいた奄美大島の施設はとてもいい施設でしたが、悪いことばかりしていた時期に住んでいた場所に戻るしか選択肢がないということは、もし自分だったら「未来を諦める言い訳」や「頑張れない理由」になり得ると感じました。自分の人生に責任を持つには、自分でその道を選択したという感覚が大事だと思うんです。それで私が身元引受人として名乗りを上げれば彼女の人生の選択肢が1つ増えるかなと思って、「私のところに来てもいいよ。選べるよ」って提案したんです。