「公平性」が重要視されているはずのスポーツの世界。しかし、性別や人種という観点から見たときに、果たしてその公平性は守られているのだろうか。世界最大規模のスポーツイベントであるオリンピックではどうだろう。

 ここでは、フェミニズム研究者の清水晶子さんによる「VOGUEオンライン」の連載「VOGUEと学ぶフェミニズム」を書籍化した『フェミニズムってなんですか?』から一部を抜粋。

 スポーツとジェンダー・セクシュアリティを専門に研究している、関西大学文学部准教授・井谷聡子さんとの対談を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む

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井谷聡子さん 1982年生まれ。2015年トロント大学博士課程を修了。関西大学文学部准教授。専門はスポーツとジェンダー・セクシュアリティ研究。

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 1896年にアテネで開催された近代オリンピック第1回は男性選手のみで行われた。それから125年あまり。トランスジェンダーの選手の存在などが、公平性や平等の理念に議論を投げかけている。コロナ禍で開催された東京五輪を前にした2021年7月に、スポーツとジェンダー研究が専門の井谷聡子さんとともに、スポーツとジェンダーの根深い問題を考える。

オリンピックが“平和の祭典”ではなかった理由。

 清水 東京2020オリンピック・パラリンピックが新型コロナウイルスの感染拡大を懸念されながらも、1年遅れで開催されます。スポーツのイベントとしては世界最大規模であるオリンピックですが、感染症の拡がりの中での強引な開催には、かなりの批判が集まっています。けれども、ただ単に感染症だからダメだというだけではなく、オリンピックそのもののあり方について考え直すべきではないのか。

 今回はそのような切り口で、近著『〈体育会系女子〉のポリティクス─身体・ジェンダー・セクシュアリティ』(関西大学出版部)も話題で、「スポーツとジェンダー」を研究テーマにしていらっしゃる井谷さんに、オリンピックそれ自体についてお話しいただきます。

 また、女性の競技への参加資格をめぐり、スポーツとセクシズム(性差別)や人種差別との関わりをあらためて問い直す声も高まっていますので、その辺も伺えれば嬉しいです。まずは直近のオリンピックについての井谷さんのご見解から、お聞きしてもいいでしょうか。

 井谷 そもそもスポーツが公平な場であるとか、オリンピックが平和をもたらす祭典だということは、オリンピックというブランド維持のために宣伝されていることであり、事実とはまったく異なっています。近代オリンピックの父と称されるピエール・ド・クーベルタンはバロン(男爵)の爵位にこだわるなど、社会にある差別構造について批判的な人物とは言えません。そして彼はオリンピックを、“世界の中心となるべき欧州エリート層の男性たちを教育するツール”と位置づけていました。

 1896年にアテネで開催された第1回オリンピック大会に参加したのは当時の大英帝国やフランスといったヨーロッパの「列強」と言われた国々で、選手は男性に限定されています。競技種目の多くはヨーロッパのエリート層が嗜(たしな)んでいたスポーツです。大会の組織やルールづくりは、こういったスポーツが上流階級層で盛んだった欧米諸国が主に担いました。

 欧州の上流階級で発達したスポーツ文化を広めることが文明化であるという考え方は、帝国主義的、植民地主義的、階級差別的です。近代に五輪を「復活」させるという発想の根底には、こういったイデオロギーがあったのです。19世紀末の世界を支配していた差別の構造を、ある意味で強化するような祭典だったといえるのではないでしょうか。