「と……と、とにかく、逃げられるだけ逃げよう」
各々が猟銃を持っていることさえ、しばし忘れた格好であった。
石本は悲壮な声を震わせながらいった。
「と……と、とにかく、逃げられるだけ逃げよう」
沢野もいう。
「どうしてもダメなら、度胸をすえ、3人で待ち伏せして、一斉射撃でやっつけてやろうじゃないか」
もとより、私に異存のある筈はない。
「よしッ、もう1つの渓谷を越えていって形勢を見てみようぜ」
石本、沢野、私の順で、またまた滑走に移った。なるべく遠まわりになっていいから登り坂は避け、下り一方にと、トドマツの欝蒼とした樹間や、シラカバの密林帯をとばしにとばした。あまり慌てるものだから、転ばずにすむところでも転倒して、なお慌てるという狼狽ぶりである。
ともかく、一生懸命、生命からがら4キロあまりを一気に滑降したわれわれ一同、おそるおそる振り向いて見まわしたが、羆の姿は見あたらなかった。密林帯のことだから遠望はきかないが、まず近くにいないのは確かである。
流れる汗が目にはいり、しみこんで痛い。いくら拭いても流れこんでくる。痛い目をこすりこすり、一刻も早く林間を脱出しようと努めているうちに、だんだんと心も落着き、幾分、神経にも余裕が持てるようになった。しかし、まだ警戒は怠れない。たびたび振りかえって羆の追跡に心を痛めたが、幸いもう姿は見せなかった。
羆射ちの猟人が、しかも3人もいて、羆を見ただけで意気地なく逃げ出したのでは、猟天狗もへったくれもあったものではない。恥かしくて、人さまに話もできない。
第一、後から考えると、あの時、なぜあんなに慌てふためいて逃げたのかわからない。まるでなにか、魔術にでもかかったようなものだった。
猟銃だって、ウインチェスター・ライフルと、ブローニングの5連と2連とを持っていたのだから、そう慌てなくても、じっくり構えていたら、大羆といえども射倒せたのではなかったろうか……と、先刻までのおそろしさを忘れて、いまいましくてならなかった。