なにも出井が蒔いてきた種が現在のソニーを支えているとは言わないが、出井が「有形資産」からコンテンツなどの「無形資産」へと舵を切ろうとし、布石を打ってきたことは忘れてはならない。まさに冒頭での「マネーフォワード」創業者、辻の体験談は“出井ソニー”の象徴だろう。
減点主義が横行する日本では、多くの場合、サラリーマン社長は、精彩を放つことはない。今もって、サラリーマン出身者のスター経営者といえば、トヨタの奥田碩であり、ソニーの出井だろう。
“井深が見つけ、岩間が作り、盛田が売った”とも評され、ソニー第3の創業者とも言われたのが4代目社長、岩間和夫だった。岩間がいなければ、ソニーはもちろん、日本の半導体産業は育たなかったといわれるほどの技術者だった岩間は、理系ではない文系出身の出井を可愛がった。技術者の牙城だった「オーディオ事業部長」に出井が手を上げた時も、
「出井は“千三つ(せんみつ)”だから面白いかも。やらせてみよう」
“千三つ”というのは、大風呂敷をひろげることだが、岩間はこう言って文系の冒険を面白がった。出井は「コンピュータ部長」も務めるのだが、「オーディオ部長」の時代、初めて大規模集積回路(LSI)の塊である「CD」(コンパクトディスク)を手掛ける。ソニー社内でいち早くデジタル体験をする。
“追い出し部屋”さながらの大左遷も経験
事業部を跨いで自らの専門分野の外にでることをソニーでは“越境”と呼んでいた。出井は自ら進んでその“越境”を繰り返した。なぜなら、ソニーは徹底した“技術者”の会社だったからだ。技術者絶対有利な会社で生き残るすべとしての“越境”を出井は意識的に続ける。文系ながらインターネットの時代、デジタルの時代に果敢に舵を切れたのもそのためだった。
出井のサラリーマン人生は平坦、順調とは程遠い。意識的に“越境”を繰り返したかと思えば、30代前半でいきなり子会社の物流倉庫に飛ばされた。40代半ばの部長職にある時に社長の大賀の逆鱗に触れ、部長職を解かれ、与えられたのは机1つと電話だけだった。“追い出し部屋”さながらの大左遷も経験している。
こうした経験から出井は言う。
「サラリーマンこそ、最もベンチャー起業家に向いている」と。
出井は『人生の経営』を上梓した。この本は、サラリーマン出井の記録であり、その中でサラリーマンこそが可能性の“塊”であることを体験的に語っている。コロナ禍の中、社会の在りようが大きく変化し、働き方も様変わりした。サラリーマンという生き方の中に自らの可能性を見つけた出井の経営者としての視点、視座は多くの示唆を与えてくれるはずだ。