いまから50年前のきょう、1967(昭和42)年12月22日、実業家・政治家の高橋龍太郎が92歳で死去した。1875(明治8)年7月15日に愛媛県の造り酒屋に生まれた高橋は、第三高等学校(現在の京都大学)工学部を卒業後、大阪麦酒に入社。ドイツに派遣されて、日本人として初めてビール醸造を学んだ。1906年、大阪麦酒・日本麦酒・札幌麦酒の3社が合併して大日本麦酒が発足して以後、幹部職を歴任、37年には取締役社長となった。だが、終戦直後の49年、大日本麦酒はGHQの指令による過度経済力集中排除法の適用で、日本麦酒(現サッポロビール)と朝日麦酒(現アサヒビール)に分割され、これを機に高橋は社長を辞任する。この間、46年に貴族院議員に勅選され、翌年には第1回参院選に当選した。

サッカーと野球でも“偉い人”

「日本のビール王」と呼ばれ、財界人として日本商工会議所会頭、政治家として第3次吉田茂内閣の通産大臣も務めた高橋は、サッカーと野球の世界にも大きな足跡を残している。

第3次吉田茂内閣で通産大臣を務めた ©共同通信社

 サッカーについては1947年、日本サッカー協会の会長に就任、戦後の困難な時期にあって同協会の再建に努めた。これは戦死した子息が、旧制松山高校から京都帝国大学時代にかけてサッカーに打ち込んでいたという縁から引き受けたものであった。48年には、全日本選手権の天皇杯を拝受している。こうした貢献により、没後の2005(平成17)年、第1回サッカー殿堂に選出された。

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私財をなげうち球団「高橋ユニオンズ」を経営

 野球では、プロ野球の高橋ユニオンズのオーナーを務めた。もとはといえば1953年末、当時のパ・リーグ総裁の永田雅一(大映社長)が、同リーグの人気挽回のため1球団増やして8球団制に移行すると発表、新球団のオーナーを高橋に打診したのが始まりだった。球団経営は本来、企業ではなく個人が責任をもって行なうべきという永田の理想に共鳴した高橋は、その要請を快諾する。だが、ユニオンズは、当初約束された援助(他球団からの一流選手の供出など)を受けられず、成績は低迷、資金難が続く。それでも高橋は一切を私財でまかない、1年目の54年のシーズンオフには自邸を売却して資金をつくるほどであった。その後、名投手スタルヒンの日本初の300勝達成や、佐々木信也の新人でのベストナイン選出など、所属選手の活躍はあったとはいえ、ユニオンズ(途中、55年よりスポンサーにトンボ鉛筆がつき「トンボ・ユニオンズ」と改称)は結局、発足からわずか4年目の57年に解散している。

 高橋の前後にも、田村駒商店の田村駒治郎(松竹ロビンス)や東洋工業(現マツダ)の松田恒次(広島東洋カープ)らが企業家個人として球団経営に携わった例はあるものの、すでに隠居の身にありながら、一個人として私財をなげうって球団を経営したのは高橋龍太郎だけである(長谷川晶一『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』白夜書房)。それだけの功績を残しながら、野球殿堂のほうにはまだ彼の名は刻まれていない。