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戦後、食べるのも大変な中、野村万蔵家に限らず狂言の家は、その身軽さを生かし、僅かな出演料で、学校を中心に全国を巡演して回った。この地道な努力も、「狂言ブーム」を支えた。
やがて、「狂言会」は、全国各地で頻繁に開かれるようになり、観客を増やして行った。萬斎や茂山家の若手など、メディアの注目を集める狂言師が現れる度に、「狂言ブーム」と言われる盛り上がりが繰り返し訪れている。
能も「素人弟子=観客」という歪な構造から抜け出て、純粋な観客を育てようと努力はしている。しかし、現状では、素人弟子が減少して行くだけで、その穴を埋め切る事は出来ていない。
それに対し狂言は、教養主義が崩壊した後も、娯楽として定着し、一定数の観客を確保している。「家の子」であれば、専業で食べて行けるほどになった。
狂言の強みは、興行面以外でも発揮されている。仮に萬斎が、シテ方であったとしたら、活動は窮屈になってしまった事だろう。たとえ演劇・映画・テレビなどから声が掛かっても、シテ方内部の立場や他の役との関係などを考慮しなければならないので、自分の都合だけでスケジュールを決めるのは難しい。その結果、活動の幅は、自ずと狭められた筈だ。
特に映画やテレビの撮影では、長い期間を押さえられる。萬斎が、それに対応出来るのも、独自に動き、スケジュールが調整し易い狂言方だからこそという事もある。
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