明治時代中期以降、東京ではシテ方の流儀や家が、大勢の観客が入れる見所を備えた能楽堂を相次いで建設する。ここを本拠地として、定期的な公演が行われるようになった。そこに詰め掛けた観客の多くは、シテ方の役者に師事する素人弟子や、その知り合い。さながらサロンのようで、一般の興行とは随分と様子が違っていた。
そういった観客にとって、狂言は、能の付けたしのようなものだった。狂言の間は、休憩時間でもあるかのように外に出たり、舞台そっちのけで世間話に花を咲かせる観客もいた。
六世野村万蔵も「その頃の能のお客さんっていうのは、狂言は、仕方なしに見ている人で、見たくて見たくてたまらないなんていう人はなかった」と語っている(『能と狂言の世界』横道万里雄編、平凡社)。
そのような状況では、狂言会を開いたとしても、わざわざ見に来る観客などいなかった。
発揮される狂言の強み
いくら、狂言は、制作費が少なくて済み、興行に有利だといっても、実際に公演が行われ、経済的に見合うだけの観客が集まらなければ成り立たない。
戦前は、今のように能楽堂や劇場で、狂言だけの公演が行われる事は無かった。
それを打ち破ったのが、萬斎の祖父に当たる六世野村万蔵や十二世茂山千五郎(後の四世千作)・二世千之丞兄弟だ。「狂言会」を開くなどして、その魅力や価値を知ってもらうために活動した。
丁度、「教養人」と言われる人々の中から、柳宗悦の「民芸運動」と同様に、「大衆的」とされ低く見られていた芸能を芸術的に再評価しようとする動きが起きていて、その焦点は狂言にも当たった。それが万蔵らの活動を後押しした。
戦前は一部のエリートだけのものだった「教養主義」が、高度経済成長による中間層の増大と共に広がりを見せ、「教養人」は絶大な影響力を持った。狂言も、それに乗って観客を増やし、「狂言ブーム」と呼ばれるほどになった。