文春オンライン

「その頃、狂言が見たくて見たくてたまらないなんて人はなかった」狂言師・野村萬斎がここまで縦横無尽に活躍できる“根本的な理由”

『野村萬斎』より #2

2022/05/23
note

狂言が生かせなかった「強み」

 しかし、狂言は、長い間、この「興行に向いている」という強みを生かせない状況に置かれていた。自由な活動が制限されていたのと、狂言の立ち位置、それに関連する客層が原因だった。

 そもそも能も狂言も、誕生した時から興行として行われていた訳ではないからだ。前にも記したように、能・狂言は、神事芸能の「翁」を演じるための芸能集団である「猿楽」の座で演じられるようになった。

「猿楽」の座は、初期には寺社、能・狂言が生まれてからは将軍・大名といった武家に庇護されるようになる。興行も行われていたが、経済的には庇護によって成り立っていた。

ADVERTISEMENT

 江戸時代に入ると、能は儀式や行事に欠く事の出来ない「武家の式楽」とされ、主な役者は、幕府や大藩の「お抱え」、現在で言う「公務員」となった。狂言の役者も、「狂言方」として、その中に組み込まれた。「お抱え」となるということは、身分的・経済的安定と引き換えに、活動が制限されるという事で、興行として演じることは、ほとんど無くなった。

 江戸幕府の崩壊で、一時は衰退した能だったが、やがて世の中が落ち着いて来ると、シテ方は、華族となって特権を維持した大名ら、江戸時代からの庇護者に加え、新政府の役人や、資本主義の発達によって新たに生まれた会社員といった層に謡・仕舞を教えるようになる。気軽に稽古できる謡・仕舞を入り口に、能の裾野は広がって行った。

 これによってシテ方は息を吹き返す。稽古料と「勤め料」と言われる出演料で生活を成り立たせることが出来るようになったからだ。舞台にたくさん出るよりも、裕福な素人弟子を多く持った方が羽振りが良いという、役者としては本末転倒の状態にさえなった。

 しかし、囃子方はまだしも、ワキ方・狂言方に弟子入りする人は少なく、良い後援者でもいなければ、生活は大変だった。昭和の一時期まで、狂言方は、長男を除けば、次男以下は勤めに出て、土日だけ舞台に出るという「兼業狂言方」が普通だった。