日本の伝統芸能「能楽」とは、能と狂言を合わせて言う言葉である。野村萬斎さんは狂言方の後継ぎとして生まれ育ち、今では映画やテレビでも活躍する人気俳優となった。明治大学大学院講師であり、横浜能楽堂の芸術監督でもある中村雅之さんは、萬斎さんの活躍を「一人勝ち」だと指摘する。

 ここでは中村さんの著書『野村萬斎』(新潮新書)より一部を抜粋。能と狂言の体制を比較し、狂言方の萬斎さんが活躍する理由を紐解いていく。(全2回の2回目/前編を読む

舞台での野村萬斎さん ©文藝春秋

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興行に向く狂言

 能は興行には向かない芸能だ。

 歌舞伎のように大衆的な人気があり、大勢の観客が集められるわけではない。しかし、その割に制作費がかかる。大半は「出勤料」や「勤め料」と言われる人件費だ。舞台装置や照明はシンプルだが、出演者の人数が多い。能一曲を上演するのに、シテ方だけで、少なくとも10人以上は必要だ。

 ワキ方、囃子方、狂言方も欠かせず、さらに能の公演では狂言も併せて演じられるのが基本なので、出演者は総勢20人を超える。そのため、採算ラインまで達する事はあったにしても、それほど儲かるものでもない。

 つまり、能は興行会社にとっては旨味の無い芸能なのだ。実際、歌舞伎や演芸を手掛ける松竹は、能の興行にも手を出しかけた事があるが、結局はあきらめた。算盤を弾いてみると割に合わなかったのだろう。

 また、能は本来、数百人規模で見るのがふさわしいように出来ている。能楽堂の定員は最大でも500~600人。薪能では、その採算性から1000人を超える観客を入れる事も珍しくないが、能面の表情は見えなくなるし、マイクを使ったりするので、能本来の魅力は損なわれる。

 その点、狂言は、後見も含め、4人もいれば大概の曲を演じる事が出来る。一部の曲で囃子方が出る以外は、他人の手を借りる事もない。親兄弟と弟子といった身内だけでもできる「ファミリービジネス」だ。出演人数が少なければ、出演料も少なくて済む。その上、大掛かりな舞台装置もいらず、照明に凝る必要もないので、制作費があまりかからない。