玉三郎が危惧する「人間社会そのものが崩れていく予兆」
お園は、とにかく明るくおしゃべり、客と話を合わせるのも巧みな「座持ちの良い」芸者。尤も、酒が入ると、ブレーキが利かないのが玉に瑕だ。
弾丸トークで宴席を盛りあげながら、やがてまっすぐな心根ゆえに話をややっこしくするという難役を、玉三郎は実に明るく軽妙に演じる。まるでコメディのように笑わせながら、「噂話」の無責任さをばっさりと斬る迫力のどんでん返しは、SNS全盛期の今だからこそ身にしみる。
意外に思う人も多いかも知れないが、玉三郎にはジャーナリスト精神がある。
「今何が起きているのかを常に感じ取る努力は怠りたくない。また、日常生活で感じる違和感を見過ごさないように気をつけている」
1993年、私が初めて玉三郎にインタビューした時の彼の言葉が忘れられない。
たとえ自身が江戸時代の世界で舞台を務めようとも、それを観る人は現代人であるのを忘れてはいけないと玉三郎は考えている。つまり、彼が演じる作品は、単に古典であるだけではなく、現代社会に通じる「心」や「本質」があり、それを伝えてこそ伝統芸能なのだと確信を持っているのだ。だから、社会状況に常に目を配り、時代の変化についての分析を忘れないのだ。
「この作品は、メディア批判でもある」
例えば、スマートフォンによる弊害について、彼はことあるごとに警鐘を鳴らしている。スマホによって多くの若者が、社会と接点を持つことに興味を失い、直接人と接して行うコミュニケーションではなく、自分が好むSNSの情報を信じ込んでいる。それは、人間社会そのものが崩れていく予兆ではないか。彼はそう危惧している。
また、常に時代の変化に敏感であると同時に、変えてはならない日本の本質についてのこだわりも強い。社会とは常に流転していくものではあるが、人間の本質は変わらないからだ。そんな当たり前の常識すら失われた時代にあって、玉三郎の姿勢は尊い。
だからこそ、玉三郎にとって『ふるあめりかに袖はぬらさじ』は、極めて貴重な作品なのだ。
「この作品は、メディア批判でもあるし、美談や世論の怖さに警鐘を鳴らしていると思う」
玉三郎と本作品について語り合うと、彼は必ずその点を指摘する。
「にもかかわらず、主張を押しつけたりせず、面白おかしく、その先にある悲しみや虚しさが湧き上がるという重層的な作品は、何度演じても飽きないほど素晴らしい」