大門・浜松町にある、朝日放送ラジオ東京支社。大きな窓の向こうには、澄み切った秋空の中に堂々とそびえる東京タワーが見えるスタジオで、歌舞伎俳優・中村七之助(38)は舞台の上で演じる女方とは打って変わってシャープな黒スーツを纏い、放送マイクを前に素顔のトークを披露していた。
ここは、七之助が初MCを務めるラジオ番組『Sky presents 中村七之助のラジのすけ』(ABCラジオ)の収録現場だ。伝統芸能の頂点ともいえる歌舞伎界だが、新世代の台頭で、今やテレビで歌舞伎俳優を見ない日はない。芸能事務所に所属する歌舞伎俳優も少なくはなく、メディアとの関係も現代的になってきた。
名門である中村屋にもその変化は訪れており、「歌舞伎俳優さんによる民放ラジオのレギュラー番組はウチだけです」とスタッフが語るように、七之助の同番組出演は画期的なことだという。
名門に生まれ、歌舞伎界を背負い続けてきた七之助は今、何を仕掛けようとしているのか。彼は現在の芸能、そしてエンターテインメントの世界をどう見ているのか――。ラジオ収録を終えた七之助に話を聞いた。
“実力”を思い知らされた若手時代
1983年生まれ、十八代目中村勘三郎の次男。2歳上の兄、六代目中村勘九郎と共に歌舞伎の次世代を担う兄弟として幼い頃から注目された。歌舞伎俳優としての実力に加え、現代劇やテレビでも活躍し、人脈も遊びっぷりも華やかであまりにも有名な父を持つ、将来を期待された名門の跡取り息子たち。だが整ったレールの上を苦労なく進んだわけではないという。
父が出る大舞台に子役として出してもらううちは、満員の客席しか見たことがなかった。だが16歳の時、兄と共に若手役者の登竜門として知られる新春浅草歌舞伎に参加。「亀治郎さん(現・市川猿之助)や(中村)獅童さんなど、若手だけのメンバーで、初めて自分たちの公演を開いたんです。でも、いざ幕が開くとお客様がほとんど入っていなくて。2階なんて数人くらいだったかな……。まだ獅童さんも映画『ピンポン』でブレイクする前。そのときは、これが自分たちの実力なんだと目の当たりにしました」
当時は市川新之助(海老蔵)、尾上辰之助(松緑)、尾上菊之助の「平成の三之助」が人気を博し、歌舞伎ブームを生んでいた頃。そこから浅草の街頭でチラシを手配りするなど、若手俳優たち自らさまざまなチャレンジを重ねて、なんとかお客さんを呼び込もうとしたという。
「お弁当屋さんと交渉して、チケットにお弁当をつけてみたり、いろいろやりましたね。あと、歌舞伎のチラシは堅苦しくて難しい印象があったので、みんなで革ジャンを着て、雷門の前で素顔で写真を撮って、それをチラシにしたり。そのチラシは賞もいただいたんですよ。今見るとすごい格好だなと思いますけど、いい思い出ですね(笑)」