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 そんな地道な努力の末、3年目にようやく花が開いた。「1月といえば浅草というくらいに、動員数記録も塗り替えました。今では猿之助さんも獅童さんも、私もそうですけど、ひとつの興行を任せてもらえるような立場になりました。でも、それはあの頃の熱い魂があったからこそで。そのおかげで、今の自分がいるんだなと思います」

 先日、七之助は「浅草芸能大賞奨励賞」を受賞した。若き日の想いと家族の歴史が詰まった、浅草からのご褒美だ。「浅草には本当にお世話になりました。最近街に全然貢献していないんだけど、浅草駅から公会堂に向けてスターの手形がわっと並ぶ中に、僕の手形もあるんです。兄のも父のも祖父のもある。うちは死んでからもお墓が浅草だから、生まれてから死ぬまでお世話になるんだな……」

「父の死を真正面から受け止められなかった」

 勘九郎と七之助の兄弟は、豪胆で芸に厳しい父・勘三郎の下で、ずっとセットだった。だが現代劇と歌舞伎の融合や積極的な海外公演進出など、舞台芸術としての歌舞伎に革新の風をもたらす進取の気性に富み、中村屋の屋台骨であったその父が、2012年末に突然他界した。「あの時は兄が襲名中で……あんまり記憶にないんです。たぶんキャパオーバーで、父の死を真正面から受け止められなかったんだと思うんですよね」

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 勘九郎の襲名興行。関西にいた兄弟は悲しむ暇もなく、京都南座での公演が終わった直後に東京に帰ってはまた京都に向かうといった状態で舞台を勤めあげる。「勘九郎襲名という大変な興行があったおかげで、むしろ精神を保っていられたのかもしれないです。父はまだ57でしたからね。現実感がなくて、これは夢じゃないかというくらいの日々でした」

 

 七之助はその時、29歳だった。「襲名中に父が亡くなるというのは、歌舞伎の歴史上でもなかったことだと思います。襲名はおめでたいことなんですけど、毛氈の上で諸先輩方がご挨拶の口上をするときも、みんな堪えきれず泣いてしまったり……。皆さん、僕たちよりもずっと、父と一緒に戦ってきた戦友の方々ですから」

 父がいなくなった中村屋を兄弟で率いることになり、全てが一気に様変わりした。「一門を支えなきゃいけないですし、指導してくれる父はいないから、役も自分の力で挑むしかない」

 そうした状況では、仲間の存在が何より大きかったという。「例えば(尾上)松也もね、お父さんを若くして亡くして、同じような境遇で育ってきた。でも、彼の場合は一人だし、家族も支えなきゃいけないから、もっともっと大変だっただろうなと思うんです。そんな役者同士で、夢を語り合いながら、切り開いて、どうにかここまでやってきた……という感じかな」