田中は、いま考えると、サークルの会議に行く時間をバイトに使い、そこで貯めた金でいろんな国を旅行すればよかったと省みている。ただ、そのなかで唯一よかったのが、山根と出会ったことで、《山根とは大学が違うので、本来出会うはずもなく、もしそこで山根に出会っていなければ、僕は、お笑い芸人にすらなっていなかったと思う》という(※4)。
山根と田中が学生時代をすごした90年代末、バラエティ番組『ボキャブラ天国』から爆笑問題やネプチューンなどたくさんの芸人がブレイクし、お笑いブームが起きていた。二人もそれを見ているうち、自分たちも芸人になりたいと思うようになり、大学卒業後、サークル仲間4人で上京する。田中は東京の大学院に行くと家族にウソをついての旅立ちだった。
もっとも、田中が最初に組んだのは山根ではなく、背の低い友人だった。「ラスカルズ」というその凸凹コンビで、各事務所へ何度もネタ見せに行ったのだが、審査する放送作家たちには芳しい反応をもらえなかった。
一方、山根も別の相方と組むも、1年半ぐらい活動らしいことは一切せず、ネタ見せにも1回行ったぐらい。だが、ラスカルズを解散した田中と新たにコンビを組み、ネタ見せに行ったところ、「えぇぇぇ! 君たちどこで出会ったの?」といきなり食いつかれたという(※3)。それだけ、ヒョロ長の男同士のコンビはインパクト大だったわけである。
さまぁ~ずの琴線に触れた、特異なキャラ
2000年にアンガールズを結成し、ワタナベエンターテインメントに所属して2年ほどは月に2~3回、お笑いライブに出演する程度だったが、そこへ初めてテレビに出演するチャンスがめぐってきた。
それは『ウンナンの気分は上々。』という番組で、大勢の無名の芸人たちがネタを競い合い、ウッチャンナンチャンの内村光良とさまぁ~ずの大竹一樹が面白いと思ったらそれぞれの私物をくれるという企画だった。このとき、アンガールズはやはりその特異なキャラクターが「気持ち悪い」と大竹の琴線に触れ、肝心のネタは意味不明だったにもかかわらず、しっかりツッコんでもらえ、結果的に大竹から帽子をゲットする(※5)。
このときもそうだが、初期のアンガールズのコントは、とくにツッコミもない超シュールなものだった。それが、ボケ役の山根に対し、田中がテンションを上げて怒りながらツッコむというおなじみのパターンができてから、ライブでも笑いがとれるようになったという(※6)。
2004~05年頃はネタ番組の全盛期で、アンガールズもその波に乗ってブレイクした。以来、テレビやラジオに多数出演し、フリートークの機会も増える。田中はアンガールズの活動とは別に、ほかの芸人を集めて「田中が考え中」という舞台も2012年より始め、構成・演出の才能も磨いていった。