まるで昔の新庄! 日本ハムの若手が甲子園で躍動する
6月3日、阪神対日本ハムの交流戦初戦は満員だった。BIGBOSSと呼んでほしいとのことだが、われら中高年阪神ファンにとって新庄は新庄。甲子園の芝を駆け回り、跳び、滑り、本塁へ矢のようなバックホーム。いつもはしゃいで天真爛漫、暗闇の阪神を照らしてくれた「大好きな新庄」だ。
ウィルカーソンと上沢の両先発で投手戦が予想されたこの一戦。阪神は西武に勝ち越したが貧打は相変わらず。ここで相手エースに封じ込められれば、連勝スタートの6月も先行きが怪しくなる。なんとか連勝を伸ばして波に乗りたい、そんな試合だった。
しかし開始早々、波に乗ったのはファイターズだった。淺間、万波の連打であっという間に先制すると、野村の進塁打と清宮の犠飛でそつなく2点目もゲット。阪神がそのウラ1死三塁のチャンスを潰すと、日本ハムは2回にも宇佐見の犠飛であっさり3点目を奪う。どの打者も新庄のように身体能力が高く積極的に振り、合理的に走者を進める。
2回ウラ、大山が初球、高目の直球を叩き左中間へ10号ソロ、1-3。左膝を痛めて打率も低迷していたが、速い球を仕留められるくらい状態が上がってきた。
だが直後の3回表、万波のホームランで1-4と突き放され、さらに3連打で無死満塁のピンチ。ここで上川畑への初球にスクイズ敢行、見事に決まって1-5。申告敬遠で1死満塁となると、1ボールからの2球目に3人のランナーを動かし、打者宇佐見はバットを合わせてレフト前へ。大胆不敵な満塁でのヒットエンドランが成功して2点追加、1-7となった。
満塁策を無力化する予想外の戦術。これには矢野監督も驚いただろう。なにせ阪神は、満塁時の攻撃が大の苦手。三振、ゲッツー、ポップフライ、無死満塁からの無得点は当たり前。それに比べて新庄ファイターズはまるでスリルを楽しむかのようにリスキーな策にチャレンジしてくる。自分の庭で好き放題やられて、矢野監督の心中は穏やかではなかったろう。矢野監督にはずっと甲子園の野球をつくってきた自負がある。
1968年12月生まれの矢野は53歳。1972年1月生まれの新庄は50歳。90年に高卒で阪神入りした新庄に対し、矢野は翌91年に大卒で中日に入団。新庄は92年から阪神でレギュラーとなったが、中日在籍時の矢野は二番手捕手で、打撃や脚力を活かすために外野もやった。
野村克也に褒められた新庄、褒められなかった矢野
矢野は阪神に移籍、ようやく正捕手になった。矢野と新庄が阪神の主戦として一緒にプレーしたのは、98~2000年の3シーズンだ。吉田義男監督の最終年と野村克也監督の1~2年目。いずれも最下位に終わっている。
捕手を重視する野村は、当然、矢野には厳しい指導をした。野村の「偲ぶ会」で矢野は「褒められたことはほぼない」と述べた。成長ステージで「無視・賞賛・非難」を使い分けた野村のこと、正捕手の矢野に対しては「非難」が多かったはずだ。
一方、新庄のことはいつも褒めていた。「すごい選手だが、走塁に興味を持てば、もっとすごくなれる」「ピッチャーをやってみろ」……気分良くプレーさせるために、とことんおだてていた。
その頃、矢野は新庄をどんな目で見ていたのだろう。役割も責任も違うからなんとも思っていなかったのか、それとも時を経てなお「褒めてもらえなかった」と述懐するくらいだから、褒められる新庄を羨ましく思っていたのか。
そういえば、矢野監督は褒める。晋太郎、悠輔、健斗……名前で呼んでまんべんなくコメントする。星野仙一と野村克也という個性の強いふたりの監督に育てられ、思うところがあったのだろう。
4回表、二番手として藤浪が登板。開幕投手を務め、この日の日本ハムにように序盤で大量援護をもらう試合展開。少しずつリードを吐き出し交代。チームは終盤で大逆転され、それから開幕9連敗、しばらくどん底をさまよった。藤浪もやり直し。今はここで結果を出すしかない。流れを食い止め、2イニングをゼロに抑えた。
4回ウラ、大山が2打席連続の11号ソロをセンターバックスクリーン左に打ち込み2-7。前日には送りバントを命じられる場面もあった。4番の佐藤輝に負けられるかという意地がある。
この一発で「声がないはず」の甲子園が沸いた。そりゃそうだ。楽しめる時に楽しむのが阪神ファン。ないはずの声は試合進行とともに大きくなり、やがて球場を包み込んでいた。