裏街道を歩いているような惨めな思いでクイズしてた
―― 村田さんは元祖クイズの女王と呼ばれていますが、そもそもクイズの世界に入るきっかけはなんだったんですか?
村田 40歳になってからですね。テレビでたまたま『クイズタイムショック』を見ていたら、簡単な問題なのにひどい回答をする人ばかりで、これなら私のほうがまだマシじゃないかと、ハガキを出してみたんですよ。今みたいに面接なんかなくて抽選会だったんですが、あれはひどかったな。ドアの前に山ほど人がいて、ドアが開いたらなだれ込んでまるで椅子取りゲームなんですもん。クイズの実力なんて関係なし。1回目は席を取れずに1時間ほど待って、次の椅子取りゲームに勝って本戦出場。なんと9問正解して賞金を4万円ももらえた。1970年代当時の4万円ですよ。こりゃいいやと思って、NHKの『ホントにホント?』とか、『アップダウンクイズ』『アタック25』『クイズダービー』とか、一時期は集中的に出ていました。
―― 現在のクイズ王のみなさんに比べるとかなり遅いスタートですね。
村田 当時は学校にクイズ研究会がある時代でもないし、クイズなんて、別に世間の耳目を集めるようなものでもないから、劣等感というか、何か悪いことをしているというか、裏街道を歩いているような惨めな思いをしていたものですよ。
―― クイズをやっていることがですか?
村田 ええ。40代で子育ても一段落ついたような同級生のお友達といえば、お花とかお茶とか優雅な趣味に走るじゃないですか。それを1人バカみたいにテレビに出てクイズに答えて、「何よ、あの人」っていうような感じに見られてましたので。
次男とクイズに出たこともあるんです
―― ご家族の反応はいかがでしたか。
村田 主人は面白がって喜んでました。ちょうど高校から大学ぐらいだった息子たちは、私がテレビに映るときには友達を連れて麻雀荘なんかに行ってました。友達に見られたくない、うちの恥部だとか言っちゃって(笑)。次男とは、『徹子の部屋』で昔あった「フラッシュクイズ」というクイズコーナーにも出たことあるんですけどね。
―― ご自身はどのようなお子さんでしたか。お好きだったことですとか。
村田 子どもの頃は、本を読むのが好きでした。北海道の美唄生まれなんですが、本屋さんが2軒あって、自由に買っていいよと本はいくら買っても叱られなかった。『幼年倶楽部』とか童話とか、『路傍の石』みたいな少年少女世界文学全集とか。祖母の『婦人倶楽部』も読んでましたし、町に何セットしかないような金のピカピカの百科事典も、本箱の一番下の段から引っ張り出しては眺めてましたね。とにかく本が好きで、小学校に入る前に6年生までの教科書を全部読めたぐらいです。物覚えがいい子だとは言われました。
―― 裕福なご家庭だったんですか。
村田 美唄の家は祖父母の家なんです。祖父は常盤家という仙台藩の士族の次男で跡取りにはなれないので、屯田兵として北海道に移ったんですよ。屯田兵になるには奥さんが必要だということで、小作の娘だった祖母を養子縁組か何かで釣り合うようにして結婚して。士族だから、士族だからって、2人とも気位が高くて大変でした。士族と山賊なら、山賊のほうがエライと思いますがね、今の私は(笑)。